泣くということ
私はけっこう涙もろい。悲しくては泣き、寂しくては泣き、嬉しくては泣く。もらい泣きもするので、道ばたで子供が本当に悲しそうに泣いているとつられてウルウルしてしまう。映画や本もだめだ。感情移入が激しすぎるのだ。だから、子供に読む本は厳選しなければならない。今までに、うっかり子供に読みかけて、困った事になった本もある。過去の忌まわしい記憶をたぐり寄せてみると。「幸福な王子」「マッチ売りの少女」「フランダースの犬」西洋・泣かせ本の御三家だ。日本の物語では「よだかの星」「銀河鉄道の夜」にっくきは宮沢賢治。宮沢賢治は詩集でも相当泣かされる。あ、あとは「泣いた赤鬼」ですかね、やっぱり。だからこれらの本はいつまでたっても、読んであげられないのだ。読もうと思っただけで、声がうらがえる。うちの息子たちは、一生こういった本を、母親から読んでもらえないに違いない。私はとても繊細な人間なので(自己申告制導入中)音楽でもやたら涙を流す。ジャンルは主にクラシック。私の場合、特にショパンは琴線に触れっぱなしだ。年末によく「くるみ割り人形」を見に行くが、あれもいけない。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」は子供の頃に、毎日好きで聞いていたので、郷愁も相まって、バレエが終わる頃には泣きはらした腫れぼったい顔で外に出なければ行けない。子供関係の催しも鬼門だ。子供がぱくぱく口を開けてにこやかに歌っている、とか下手なりにがんばって演技をしている、などと言うのを見た日には恥ずかしいので寝たふりをして涙をぬぐう。この場合のキーワードは「子供・笑顔・いっしょうけんめい」だ。笑顔と言えば、一度教会で、あるナレーションとともにたくさんの子供たちの笑顔が次々と映し出され、バックには美しい音楽、というスライドをみせられたことがあった。最悪だった。目からは滝涙、鼻水も盛大に分泌された。薄暗い中で分泌物の流れるままに身をまかせ、周囲に気づかれないようにそっと、喉元でぬぐいとり、苦労をしていたのに、突然隣のおばちゃんが「Isn't it cute?」なんて話しかけたのだ。私の顔中ぐちゃぐちゃの姿を見て、ど肝をぬかれたおばちゃん、スライドが終わった後、「何か力になれる事があったら言って」と私の手を握りしめたのだ。力になっていただく事は何もない。見て見ぬ振りをしていただけばよかっただけだ。泣くという行為は、他人を落ち着かない気持にさせてしまうのだ。だから極力、人前では泣きたくないのだ。しかも私の場合、静かに泣くという事が大変難しく、「嗚咽系」なので、それをこらえるために息が荒くなってしまう。映画館などで、恥ずかしい思いをした事が何度もある。(正確には、同行者に恥ずかしい思いをさせた事が。)一人で家で、悲しい物語や映画で、「さあ、今日は思い切り泣くぞ」という時もある。そうしてわんわん泣いたあとはさっぱりし、何かプールに入った後のような気怠い虚脱感がおそってくるのだった。泣かない、という事は何だかそれ自体とっても格好いい気がして、憧れである。歳をとると涙もろくなるのか、それとも歳をとるとものごとに動じなくなって、あまり泣かなくなるのか。できることなら後者がいいなあ。本日の献立;魚のフライ、ブロッコリーとにんじんの炒め物、パスタのペストソースハムとコーンとレタスのサラダ、スイカ