小諸宿から海野塾
小諸宿から海野宿へと至る北国街道は時に国道18号と交わりながら、ほぼ並行に進んでいく。その西側にはしなの鉄道が走り、さらにその西に千曲川が流れている。北国街道を歩けば小諸宿と海野宿との中ほどに江戸時代の名大関と謳われた雷電為右衛門の碑や生家跡があるが、北国街道をはずれて布引観音を目ざすことにした。小諸城は、先年大河ドラマ「風林火山」で脚光を浴びた山本勘助築城と言われている。現在も残る豪壮な山門や天守閣跡、島崎藤村記念館などが、訪れる人びとを堪能させる。懐古園の南に接する道路を千曲川に向かって下ると信州・小諸の温泉宿、島崎藤村ゆかりの中棚荘がある。作家、島崎藤村は小諸義塾の教師として6年間をここ小諸の地で過ごしたという。千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつにごり酒にごれるのみて草枕しばしなぐさむと「千曲川旅情」の中に出てくる“岸近き宿”がこの中棚荘だ。ヤギもいました浅間山を北東に見やりながら千曲川対岸にある布引山の麓の県道40号を歩くと途中に出てくるのが、牛に引かれて善光寺の伝説で出てくる有名なお寺布引観音(釈尊寺)。信心の薄い老婆が川で布を晒していたところ、一頭の牛がその布を角にかけて走り出した。老婆は布を取り戻そうと牛を追って、野越え山越えたどり着いたのが善光寺。老婆はありがたさに思わず手を合わせというお話。その布引観音は行基創建の天台宗の名刹。断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが伝説の布引観音。眼下に千曲川が流れ、小諸の城下町から、湯の丸高原、高峰高原、そして浅間山まで見渡す展望は見事だ。度重なる悲劇の宿場「田中宿」布引観音を後にして、千曲川沿いを下っていて見つけた「布下」という地名。布引観音の麓にあることが地名のいわれなんだろうとひとり納得。滋野駅を越えたあたりの橋で千曲川を渡り、しなの鉄道を越した。しなの鉄道に沿って歩けばやがて整備された田中の町並みへ。そしてそこから少しで田中駅に到着する。田中宿は海野宿とともに2つでひとつの合宿として慶長年間(1596年~1614年)に設置され、寛保2年(1742年)8月1日「戌の満水」と呼ばれる大水害に直撃され壊滅状態に。その為、半月交代で伝馬役のみ勤めていた海野宿に宿機能を譲らざるを得なくなった。さらに慶応3年(1867年)の大火で宿場の殆どが燃え去った悲劇の宿場。近年、道路の拡幅を伴う町の整備事業が行われた為、かつての宿場町としての面影を見つけるのは困難だ。