満蒙開拓義勇軍の参加者は、長野県が一番多かった。
9月から地域の平和の取り組みにかかわっている。9月は「わが町にも空襲があった」。敗戦の日を目前にした1945年8月13日、長野市にある私たちの町にも空襲があった。上田方面からやってきた米軍機のグラマンが数度、空襲を繰り返したのだ。そのときはまだ子どもだった方に当時の話しをしていただいた。逃げまどう人びと、無抵抗の住民に空爆を繰り返す米軍。そして今日は、満蒙開拓青少年義勇軍を描いたアニメ「蒼い記憶」の上映と実際、青少年義勇軍に15歳で参加したKさんの体験談。当時、国は満蒙開拓義勇軍を全国的に募った。最初、参加者は目標に遠くおよばなかったが、教師たちからの勧誘もはげしくなり、貧しい地方からの志願者が増える。なかでも長野県から義勇軍の参加者は群を抜いていた。日本軍が守ってくれるからと入植した人びとだったが、ソ連軍の侵攻と同時に日本の軍隊は満州から撤退し、開拓団や義勇軍は取り残され、命からがら満州の地をあとにした。そしてこのとき中国においてこられた人たちが「中国残留孤児」となる。次回はこの問題をテーマにした勉強会を計画している。いずれにせよ戦争の中で人びとの生活は拘束され、人間性までもが破壊される。戦争のない平和な世界を次の世界をつくる子どもたちに手渡したいと心から思う。今日、話しをして頂いたKさんは15歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願。1944(昭和19)年11月に満州のソ連国境近い地域に入り、敗戦を前にしてソ連軍の侵攻を受け、日本軍がこれまで虐げてきた中国人からの攻撃を免れるために山間地を逃げまどい捕虜となり、翌1946(昭和21)年6月に日本に帰り着いた。長野県から送り出した38,000人の開拓団、義勇軍のうち3人に1人強が亡くなられ、2度と本土を踏むことが出来なかった。