銀塩カメラの筆下ろし -完結編-
~前回までのあらすじ~「FM3A」に恋をして、探し回った先は日本カメラ小売店の殿堂中野「フジヤカメラ」。取り置きの連絡後、迎えに行く訳だが、銀塩カメラ童貞の私には童貞を捨てる準備ができていなかったのか、いきなりのFM3Aとの対面に少々ビビッていた。「落ち着け」そう自分に言い聞かせ、店内を回ることにしたのだが、そこで事件は起きたのだった…こちらは「銀塩カメラの筆下ろし」の第四話(四話完結)「銀塩カメラの筆下ろし -完結編-」です。初めから読みたい人はこちらからどうぞ前回の後編はこちらからどうぞ== 本編 = 本編 = 本編 = 本編 = 本編 ==「フジヤカメラ」をまわったことのある人ならすぐに分かるであろうが、2階の半分はニコンコーナーになっている。1階にキャノン、ペンタックス、オリンパス、コニカミノルタ他が収まっていることから察するに、何故かは分からないが、ニコンは特別扱いである。2階の自動ドアを開ければ、右手にはライカのコーナーがある。ライカのそのルックスには脱帽。しかし私は舶来の美女に釣り合うだけの資金も技術も持ち合わせていない(あくまでも撮影技術)。そして、左半分はニコンコーナーとなるわけだが、まず新品のコーナー。私のデジタルの相棒、D70があれば、次のステディーに間違いなくなるであろうD200が置いてあるのだ。D70とD200の違いをざっくり説明すると。。。D70は安価で手軽。操作性はそこそこ。描写力もそこそこ。つまり素人向けだ。D200は高価。AFの性能もさることながら、ホワイトバランス、ISO感度、露出補正など、多くの微調節がワンタッチでできるのだ。より高い技術を持つ猛者だけが、至福のスペックを享受できるという、玄人志向のあいつなのだ。一度、ニコンプラザというところでD200を操ってみたが、"5コマ/1sec"の連写時のシャッター音は快楽の極みまで逝ってしまいそうである(すみません)。しかし現在の目的は銀塩。「もう少しニコンの在庫管理が上手くいっていたら、 こんな出会いにはならなかっただろうな…」ショーケースから物欲しそうに私を見つめるD200を愛でるように見つめ返し、つぶやいた(あくまで心の中で)。もう、いいだろう。FM3Aお前を大事にできるのは俺しかいない。私はカウンターに向かって歩みだした。新品D200を過ぎると中古のD70・D2X・レンズと続き、最後にFE/FM/F/F2/F3と続く…が、私の視界が突然フリーズした。目の前には「F3」。そう、日本が光学機器と云う分野で世界を席巻したニコンのフラッグシップ機、Fの系譜を継ぐ「F3」である。私は逸話に弱い。このカメラは発売から20年間製造され続けた、いわば名器(光学機器)である。F3の登場は何と私と同じ1980年。つまりタメなのだ。1980年生まれといえば…冷戦終結、イラク戦争。世界情勢よりもナメック星の情勢に興味があった小学校時代。1ドル80円割れよりもマクドナルドのハンバーガー80円割れに喜んだ中学校時代。「しし座流星群を見に行く」と言い、夜空の下、彼女と一晩中いちゃいちゃした高校時代。早稲田の受験が失敗したのは、広末○子のあおりだと勝手に勘違いしていた浪人時代。そんな青春時代を共に過ごしたであろうお前は今まで何をフィルムに焼き付けてきたのだろうか。ある種のノスタルジックが私を襲い、F3のショーケースから離れられなくなってしまった。実はこのF3。先ほども記述したように、製造期間は20年間だった。つまり、私はF3と一緒に21世紀を越えることはできなかったのだ。それから5年がたち、2006年となった今、私は「FM3A(2001年登場)」という若い娘に手を出して…。私は…何てふしらだな行為を。足がすくみ、嫌悪感すら覚えながら、すぐに店員を呼び出し、F3を購入した。店員「お取り置きしておりましたFM3Aは いかがいたしましょうか?」私「キャンセルでお願いします」* * *中野のショッピングモールをふらふらと歩く。人生の伴侶を得た喜び、安堵感、使命感、責任感。色々な想いが紙袋の中のマグネシウムボディーから伝わってくる。今日は早く帰ろう。目一杯、ブロアー(埃取り)にかけてから、とっておきのレンズをはめてやろう。・・・その後、F3の製造番号が200万台だったことにことに愕然とするのは、1時間半後の話。* 200万台は2000年前後の製造であり、 かなりのロリコン機だったのだ<完>