『何のために生きるのか』
見出し:何のために生きるのか。五木寛之、稲盛和夫著『何のために生きるのか』(致知出版社) どこかで見たようなタイトルである。さておき、蔵書のうちの数パーセントにも満たない、140本足らずの書評をざっと一覧いただければ分かるように、私が、こうしたジャンルの本を手にすることは実に稀である。一つには、まだまだこうした人生哲学や実業ジャンルの本を手にするにはあまりに若すぎると言うことと、本来自身が割かねばならない読書時間は他のジャンルのためにあるという思いもあった。 と、同時に、サラリーマンを経て経営者にもなった父の本棚には、ありとあらゆるこの類いのジャンルの本が所狭しと並んでいたので、その気になって実家に戻れば、最新のベストセラーが常に揃っているという理由もある。 ふたたびタイトルである。そう、私たちの共著とニアミス寸前のタイトル。無論、この本の存在を知って、著者二人の一存(二存)でつけたのでなく、出版社との編集会議の中で、多数の候補から絞り込んだのではあるが、つくづく、今、生きる意味を問うテーマの本が、引きも切らず読者へと発信されているのだと痛感する。 この、滅多に手にしないジャンルの本をあえて手にしたのには二つの理由がある。一つには、私たちの近著とどのようなシンクロがあるかを確かめたかったこと。いま一つは、どう違うのかを把握しておきたかったこと、の二点である。 いくつかその結果を挙げてみると、●五木氏、稲盛氏が、仏教を拠り所に“情(こころ)”と呼んでいるものを、私たちの共著では、近藤氏は“スピリチュアリティ”と呼び、私は“知性”と呼んでいるが、根底に在るスタンスは一致していた(無論、本書で否定される頭でっかちなインテリジェンスと、私の考える“知性”の全く異なることは、著作を読んでいただければ分かるであろう)。●五木氏が「現代日本には歌がない」と述べている点は、音楽業界の片隅にもいる私としては、納得のいく部分と、複雑な感情との両方を抱いた。●本書が、同じ年代生まれの対談形式になってる内容については、逆に私たちの共著が約半世紀の年齢差のある二人が書き対話している点、赴きと視点が違って、遠慮がなく面白いかもしれない。とりわけ、どうしても現代人の情操面での枯渇が、テレビゲームの罪に帰されている点は、テレビゲーム世代で育った私としては、若干結論と断罪への飛躍を感じてしまったが、そこもまた世代間の意見があってしかるべきであるし、私の意見は共著にしっかり盛り込んだつもりだ。●本書における“利他”の思想、および慈しみの精神が、私たちの近著において私のパートで述べた、自己愛とどう違い、どう絡むのか(私としては、ほぼ同じ意味と考えているが)、これは私自身が深堀していきたい。 さて、『何のために生きるのか』を読んだ。次は、近藤氏との共著『何のために生き、死ぬの?-意味を探る旅』(地湧社)が、いよいよ週明け半ばから書店に並びだす。この二冊が、個人的には合わせ鏡のように感じられてならないのは、著者故の思い入れのみには非ず、である。(了)何のために生きるのか