「旧約聖書物語」を観た
この何日間かかけて、10年ほど前に録画したまま眠りかけていた手塚治虫の『旧約聖書物語』全26話を通して観ました。同タイトルの書物は何種類か読んできましたが、アニメとはいえ映像はやはりインパクトが強いです。(因みに、それから題材をとった映画にも興味があり、今まで何本も観てきました) ただ正直言って、途中からだんだん観るのが辛くなってきました。と言いますのも、神(主)の言葉に従わない者は、他の部族、民族ばかりでなく、同族の者さえ情け容赦なく殺してしまうという、そんなエピソードの積み重ねに嫌気がさしてきたからです。これではまるで「旧約聖書」というのは(ユダヤ教徒やキリスト教の一部の皆様には申し訳ないけれど)、自分たちに逆らう者をどんどん殺戮、粛清していった事実を神の名を借りて正当化するための物語ではないのか?との、うがった見方もしたくなります。 自分たちが信奉する神以外の神は認めないというだけなら、「異教徒」とも共存はできるでしょうが、その神が異教徒を滅ぼせとお命じになったなんて言われたひには、周りにとっちゃたまったものではありません。もちろんこういったことはすべて過去の出来事と思いたいものです。 『旧約聖書物語』の末尾第26話は「イエスの誕生」ですが、ここに来てやっと何か救われた気がしました。でも、聖地をめぐっての長い長い闘争、ヨーロッパでの宗教戦争、21世紀になってもまだ見通しのつきかねる中東状況。人類の知恵はいつ発揮されることでしょう。 ところで今、ムハンマドの諷刺画が西欧で問題になっていますが、宗教がからんだいざこざというのは、なかなか解決が難しいもののようです。何事であれ非暴力で決着をつけてほしいものです。今日の土鈴。どこで買ったものか。長崎? 忘れました。