米兵至近距離で農婦を射殺 30日の日記
クロニクル 米兵至近距離で農婦を射殺1957(昭和32)年1月30日65年前の出来事です。第1次南極観測隊が、南極大陸に上陸した翌日のことです。事件は群馬県相馬ケ原の米軍射撃場内で起きました。日本がまだまだ貧しい時代でした。貧しさ故に、基地周辺に済む貧農たちは、立ち入りを許された基地内に立ち入り、空薬莢(からやっきょう)や砲弾の破片を拾い集め、生活の足しにしていたのです。 射殺された坂井なかさんも、そういう一人でした。坂井さんが射殺される瞬間を目撃した農婦達の証言によって、射殺犯W・ジラード三等技術兵は「ママさん、大丈夫ヨ」と、わざと坂井さんを近くに呼び寄せたうえで、至近距離から射殺したことが明らかにされました。 当然国内世論は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。米兵に巣食う、日本人に対する極端な優越意識(この意識は今日でも、在沖縄米軍などに色濃く残り、それが婦女暴行事件や車輛による人身事故の多発に繋がっているように見えます)を、これみよがしに見せつけられたのですから……。世論の怒りに、米国に弱い日本政府も、ここは強気のポーズで米軍に当たらざるをえません。しかし、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障条約によって、日本は米軍の日本駐留を認め、その駐留米軍には、日米行政協定(当時、現日米地位協定)によって、治外法権が認められていました。即ち米兵は、勤務中か否かに関わらず、その行動によって生じた係争は、米国の法規で米国の司法でのみ裁かれることになっていたのです。ただ余りに強い、日本国民の反発を和らげる必要を意識した米国政府が譲歩し、ジラードを厳罰に処さない条件を付けて(当然日本国民には内緒で)、軍部の強い反発を抑えて、ジラードを日本側が起訴して、日本の法廷で裁くことが決まったのです。米国に住むジラードの両親は、この決定を不服として、米国内で裁判をに訴え、米国での裁判を主張したのですが、裁判所はこれを却下。ジラードは前橋地方裁判所で裁かれることになったのです。しかし、可笑しなことに、ジラードの起訴状は、明確な殺人罪であるべきなのに、何と障害致死罪となっており、判決も懲役3年執行猶予4年とされ、彼は一度も刑務所に収監されることもなく、執行猶予中にもかかわらず、結審した年のうちに本国に帰国してしまったのです。後になって、ジラードの刑を軽くし、傷害致死として立件することなどの密約が結ばれた結果、米側が日本での裁判を受け入れたことが明らかとなり、国民の疑念は正鵠を射ていたことが明らかとなったのです。 米軍基地と日本の主権との関係が、ここに大きく問題化したのです。当時中学生だった、我々や少し上の世代には、いまだにこの事件は、心の底に熾りとなって残っています。