団塊ジュニアの社会性
少し前に区小P連の教育懇談会に出席したとき、ある大学関係の方が「今、PTAは過渡期です。これから、バブル期に大学時代を過ごした団塊ジュニア世代が小学生の保護者の主な世代になりますが、その世代は社会参加意識が低い。そのためPTA自体が存続の危機です。ここは踏ん張りどころですからみんなで乗り越えましょう」みたいな内容のこと(少し意訳というか曲解されているかもしれません)をおっしゃっていて、私自身、まさにその世代なので、なんだかいまだに複雑な思いで、その言葉を噛み含めています。最初に聞いたときは、“私たち世代は確かに世の中ハスに眺めちゃうようなところがあるし、まあ言いたいこともわかるかな”と思ったのですが。今となっては、う~~ん。どうなんだろ?私たちの世代って、そんなにダメダメ揃いかな。そうでもないような気もするんですが。* * *たしかに、私を含め、みんな「頑張ってはみてもいいけど、 どうせだめなんじゃないの?」という気持ち(懐疑)とか、「いや、今ならやればできるはず。 うまくいかないのは自分のせいじゃなかった」という気持ち(転嫁)とか、「でも、結局、きちんと危機感を持って学ばなかった 自分の力不足のせいなんじゃないだろうか」という気持ち(不安と後悔)とかを抱えていて、どこかエネルギーをうまく使い切れないという気はすごくしている。それがひいては、「とにかくもうどうでもいい。 面倒くさいことには目をつぶりたい。 オレ知らない」ということで決着されてしまいがちなことは否めない。* * *でも…確かになぁ。バブル後というあの時代、どうにもならなかったですよね???(気のせいとかにして欲しくはない)直前まで目の前にかけられていたハシゴが、(手をかければ昇れると思っていた場所が)突然、誰かの手によって取り去られてしまったという事実。“努力すればそのあとどうにでもなれたはずでしょ?”なんていうのは理想論で、みんなけっこう本気で、ハシゴがなくなった空間をなんとか自力で昇ろうと必至で頑張って、そして結局手が届かなかったり、届いたときには疲弊してしまっていたり。または全然描いたことも無いような未来を見つけて「よし!」っと思ってそこで頑張る幸運を手にした人も。「本当にコレでよかったのだろうか…」という不安は消えなかったり。みんな(とは言わないまでもたくさんの人が)している(気がする)。* * *で、最初の話に戻るのだけど、終身雇用とか、学歴神話とか、土地神話とか、たくさんの「今までそこにあったもの(価値観)」が“経済”という多勢の理論でどんどん壊されていくのを見てきた中で、「PTAも、ああやってなくなっていったものと同じように、必要ないんじゃないの?」と、まずは一旦思ってみるのは、そんなに責められるべきことなんだろうか?* * *ここ数年聞く頻度が減っては来た『リストラクチュアリング』という言葉。(この言葉は、私たちの世代の心の中に“社会に出て最初に強くインプットされた言葉”としてずっと残るだろうな)まずは、不要なものをそぎ落とし、そのあときちんと、前向きな再構築まで成功すればもちろんそれはとても意味のあることなのだけど。継続は力なり。という言葉の強さに憧れる気持ちとの間で揺れる、価値観。そして、そんなやりとりに疲弊してしまった、たくさんの“心”の再構築は、個々人の“強さ”にばかり寄りかかられていて。デリケートな人や、弱い立場の人ほど心のリストラを(進めたいのに)進められなくて、もがいているような気がしてなりません。そうやって、自分とその周辺の事項に関心が向いてしまうのは、「社会性の無さ」??あ~~~~~~~~~~(-_-;)答えが出ないからこそ、なんだかずっと、引っ掛かり中。考えても不毛なんだけど。「子育ての社会化」ということがもっと具体的かつ目の前の課題になったとき、私たちはまた、ここで躓いてしまうんだろか?なんて思っています。