あんな思いはしたくないという場面
ここ数年間の間で、思い出しても、気分が悪くなるような、もう二度とごめんだという場面に数回だけど出くわしたことがある。いま、思い出してもキツイので、そうとうショックだったんだと思う。いるのに、存在を認められないような場面。ことにわたしはそういう場面に慣れてないので、苦手なのだ。そこにあるのは、エゴ、エゴ、エゴ。ぶつかりあうエゴ。人の存在を消してでも、自分を主張したいエゴ。「なんでわたしを呼んだのかな???」と、帰り支度を始めようとすると、それは許されないようで、「黙ってろ。オレの言うとおりにしろ」と言うことだった、ってことに、ようやく気づいたりして。そのときのわたしは、まさしくKY(空気読めない)だった。(そんな空気が読めたら、たぶん、やっぱりそこには いないね) * * *氷山の例えでいうと、その人のやっていることで、カネになるのは、その一角だったりする。カネもうけのうまい人は、その一角が大きな人。わたしの周りにいる人は、水面下の大きな氷山のほうをやりたがる人が多い。「んもう、おひとよしね」。ひとの夢(あるいは企画)を聞きながら、カネになる(あるいは、出世につながる、職場の評価につながる)一角を探し、この話はかめるかかめないかを、クンクンと品定めをする人を何人かみた。カネ(あるいは、出世や評価)にならないとわかったときの、逃げ足の速さに、もうびっくりしたこともある。ならないうちは、適当にそばにいて、なるとわかってから、やたら動きが活発になる人もいる。「無欲でこい!」とは言わないけどさ、手ぶらできて、なんなんだ???とは、正直思っています。(本当に能力の高い人は、そういう状況を変える力を 発揮するし)結局はその人の「人間性」につきるんだけど、だったら、最初から、「子育て支援」になんかやってくんなよ!って気分。夢なんかないくせに。カネ(おのれの出世や評価)の嗅覚だけは、ずいぶんと長けているのネ。たぶん、わたしは、お金が嫌いなのではなくて、きれいごとを言ったりながら、子育て支援いいですね、共感しますといいながら、理念にはちっとも共感しなくて、勉強も全然しなくて、結局は、カネになるかならないかだけで動き方を変える人が嫌いなのだと思う。そういう人を見るものだから、おひとよしにも氷山の見えない部分を全開にしながらなんでもかんでもやってあげちゃって、「別にお金がつかなくても、やりたいんでしょう?」とまで言われたりしている人のことがなんか、「それでいいの?」という感じになってしまうのだ。NPOのボランティアか労働かわからない中度半端な働き方が、価格破壊を起こしている状況を見て、いらだったりするのだ。バランスなんだろうと思う。価値。これまで「ただでやるんでしょう?」と言われていた部分に、価値を発生させる。そのお金は、「常識的に見て、ちょっと高すぎませんか?」「これって必要ですか?」というところから、もってきたらよいんじゃないか?と思う。たぶん、そういうふうにしたら、人の流れが変わると思う。その変化のことを、「社会を変える」と、わたしは呼びたい。杉山さんが(4つ葉の活動なり、環境整備を)やってくれたら、わたし、子育て支援を仕事にするとか言う人は、個人的にはあまり好きくない(笑)。 * * *いいじゃないですか、結果がよければ、プロセスはどうだってと、先日言われた。わたしも昔はそう思っていましたけど、でも、それって、結局、ロスなんですよね・・・とわたしの見解をお話した。もちろん、なんでもかんでも理想のかたちにこだわるつもりはないけれど、すごく大事な場面では、ちょっと踏ん張りたいかなと思う。できあがったあとに、理念がないことに気づいて、魂を入れることの難しさを、実感することも増えてきたもので、やっぱり、プロセスも大事だな・・・と、つくづく思うこの頃なのだ。(なにもないところに、かたちだけでも先につくろ うとがんばってくれた先人がおられたから、その ことに気づくことができたわけで、 だから、第2ステージに突入したってことでもある のでしょうね)プロセスは、氷山の見えない部分。そこにいったいどれだけの時間とエネルギーと思いをこめたか。青臭いと笑われてしまうかもしれないけれど、それをやっておくことが、最終的に、長く使えるいいものづくり(制度づくり)になる、と思うのだ。安かろう、悪かろうのものやサービスは、ご遠慮願いたいな、特に子どもの分野ではと思う、今日この頃。