いろんなことに思いを馳せる休日
まとまったお休みだったけれど、特に何の予定もたてておらず、思い立って靴を磨いたり(ついでに夫の靴も磨いた)、たんすの肥やしになっていた服を捨てたりした。で、いろいろ思いついたので、備忘のためにメモしておこう。(1)わたしのくせ雑誌や本の仕事が多いせいもあり、決断して、回答するのが早い(早すぎる)。紙という狭い狭い世界に、ことばという手段を使って、ぎゅうぎゅうに凝縮して情報を載せるくせがついているので、「雰囲気」とか、「感じ」とか、「まったり感」とか、そういうのをそぎ落としていくきらいがある。致命的なのは、表現が平面なのだ。音・におい・五感が、伝えたいのに、伝えられない。立体や四次元の表現方法がよくわからない。特に「時間」とのつきあい方、表現の方法は・・・どうしたらいいのかよくわからないけれど・・・。いいも、悪いもそうなのだ。気づいただけでも、めっけもの。(2)広告とそれ以外目に入るもの、耳に入るものは、大きく2つにわけることができる。商品広告とそれ以外。まず、瞬時に「これは商品広告か、それ以外か」を選別する反射神経を養いたい。「商品広告」だったら、「今欲しいと思っていたものか」「特に必要のないものか」を選別したい。「それ以外」だったら、「大事なことが書いてある(言っている)」か「どうでもいいことが書いてある(言っている)」か選別する。そうやって世の中を見てみると、本当に本当に広告が多いことに気づく(笑)。でも、だまされてはアゲナイ。(3)「繰り返し」を繰り返す一番小さな「繰り返し」は、呼吸だろうか。吸って、はいて。吸って、はいて。朝 昼 晩の繰り返し。1週間の繰り返し。1ヶ月の繰り返し。春 夏 秋 冬の繰り返し。干支の12年の繰り返し。わたしたちは「繰り返し」を繰り返している。しかし、同じではない。確実に肉体は衰え、1秒・1秒 死に向かっている。人は繰り返しだけではつまらないのか、その「繰り返し」のなかで、変化やイベントを起こしている。恋、旅行、入学、卒業、就職、転職、引越し、結婚妊娠、出産、育児、異動、病気、定年・・・・などなど。こころは常に波のように大きくなったり、小さくなったり、うねったり、鏡のように静かだったり。同じではない。「ハレ」と「ケ」って感じかな?たぶん、健全な「繰り返し」がないと、変化やイベントが健全に起こらないような気がしている。メリハリというか。ハレばかり大事にするあまり、日常の繰り返しをおろそかにすると、しくじるような気がする。気をつけよう。で、いまさらながら気づいたのは、わたしたちが変化とかイベントとか「ハレ」とか呼んでいる「繰り返し」とは違うものも、実は「繰り返し」のなかの一部に過ぎないんだよね。人が生まれて老いて病気して死んで人が生まれて老いて病気して死んでという「繰り返し」なんだよね。わたしは、大きな「繰り返し」のなかの一部。どんな大きな変化を起こしたところで、「わたしだけ特別」はあり得ない(笑)。そういうこと。(4)おまけそれでは、あまりにあまりなので、「つばめよ 高い空から 教えてよ 地上の星を」ぐらいの野望は、もっていたいかな?