母・いつ子さんの子育て信條 1
世界的ピアニスト辻井伸行はこうして生まれた2009年6月、一人の全盲の若者が世界を感動の渦に巻き込んだ。その演奏を聴いた世界中の人が涙した。辻井伸行さん、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール優勝の瞬間である。その陰には、絶望の淵から立ち直り、伸行さんをピアニストとして育て上げた母・辻井いつ子さんの姿があった。親子二人三脚の歩み、そこで得たいつ子さんの信條とは。 辻井いつ子つじい・いつこ 昭和35年東京都生まれ。東京女学館短期大学卒業。フリーのアナウンサーとして活動後・産婦人科医のご主人と結婚。生まれつき全盲の長男・信行さんをヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール優勝に導く。著書に『今日の風、なに色?』『のぶカンタービレ!』(ともにアスコム)。こんなに苛酷な運命を背負わなくてはならないの長男・伸行が元気な産声を上げたのは1988年9月13日でした。待望の赤ちゃんは五体満足で標準体重。私は無事出産を終えた安堵感と子を授かった喜びで、その晩はなかなか眠れませんでした。伸行の異常に何となく気づき始めたのは翌日に授乳を始めてからでした。ベビー室には多くの赤ちゃんが眠っています。お母さんが抱き上げ、おっぱいを与えると、皆可愛い目をクリクリさせながら、お母さんの目をジッと見つめます。ところが、どういうわけか伸行だけは目を閉じたままなのです。ベビー室に何度足を運んでも、いつも同じような状態です。「なぜ、いつも眠っているみたいなのだろう」。その疑問は時間を追うごとに膨らみ、「これは何か変ではないか」という不安が、まるで心の片隅に黒いインクをポツンと落とすように広がっていきました。後で知ったことですが、私の出産に立ち会ってくれた産婦人科医の夫は、伸行の異常に気づき、眼科医にそのことを相談していました。そこで告げられたのが「小眼(しょうがん)球症(きゅうしょう)」という目の病名。この子は生まれつき目が見えないという宣告でした。しかし、産後間もない私にショックを与えまいと、「小さい頃は、まだはっきりしたことが分からないんだ」と曖昧な説明を繰り返していたのです。専門の眼科医から真実を知らされたのは、間もなくのことでした。悪い予感は的中していました。「やはり......」と思った瞬間、深い谷底にドーンと突き落とされたような激しい衝撃に襲われました。「夢なら覚めてほしい。誰か、この先生が言っていることが嘘だと言って。なぜこんなに可愛い赤ちゃんが、こんなに苛酷な運命を背負わなくてはならないの......」心の中で何度、そう思ったことでしょう。毎日、伸行の目を見ては泣いていました。真っ青な空や美しい草花を眺めるだけで、「ああ、この子は一生、この光景を見ることができないのだな」と感情が高まり、ワーッと涙が溢れてきます。そういう状態が長く続きました。私は深い絶望感に晒されながらも、心の奥深くで「なんとか、ここから脱していかなきゃ私もこの子も駄目になってしまう」と焦るような思いがありました。そのヒントを求めるように書店に足を運ぶと、可愛い盲導犬の写真が配された本が目に留まりました。そこに描かれていたのは、全盲でありながら、盲導犬を連れて福祉に関する講演活動をしたり、美術館や歌舞伎に行ったりアクティブな人生を満喫する福沢美和さんの姿でした。「全盲でも何だってできるじゃないか」と思いました。「この子が生まれてよかったのか疑問に感じたのは、自分が間違いだったのではないか」と思いました。福沢さんの本に大きな勇気をもらった私は、感想を吹き込んだテープを送り、ぜひお会いしたいと伝えました。了解の返事はすぐに来ました。一歳にも満たない伸行を連れて箱根のご自宅を訪ねると、福沢さんが屈託のない笑顔で出迎えてくださいました。驚いたのは思っていた以上に颯爽(さっそう)とし、障害者ということを少しも感じさせない方だったことです。「普通にお育てになったらいいのよ。特別なことを何も思わないで、あなたが感じるままに、いいことは一緒にやったらいいし......」すっかり打ち解けた雰囲気で食事をしながら、彼女が何気なく口にした一言が素直に私の心に溶け込んでいくのを感じました。「そうか。じゃあ普通に育ててみようか」この時から私は前向きに生きられるようになりました。美しい情景を見ては「きれいよ」と伸行に語りかけました。どうせ分からないからと何もしないままでは、彼の感性は育たないと思ったのです。 我が子に秘められた才能を伸ばす福沢さんと出会う少し前から、伸行の音楽に対する感性の鋭さに驚かされることがありました。音楽をかけると反応し、特にブーニンが弾く『英雄ポロネーズ』はお気に入りで手足をバタバタさせて喜びます。それはあたかもリズムを取っているかのように見えました。ある時、そのCDが傷ついてしまい、別の奏者による『英雄ポロネーズ』を買って流しました。するとまったく反応を示さないのです。「あれっ」と思って再びブーニンの曲に変えるとバタバタと体全体で喜びを表現します。親バカだったのでしょうか、「この子は音楽を聞き分ける耳を持っている」と思いました。そこで、近所のピアノの先生に週一回来ていただくことにしました。とはいっても伸行は一歳半。膝の上に乗せてもらって演奏と歌をおとなしく聴く。それが練習でした。しばらくすると、電子ピアノを購入し、脚を短くして居間に置きました。軽く指を乗せるだけで音が出る電子ピアノなら、幼い伸行でも楽しめると思ったからです。最初はおもしろ半分音を出していたのが、しばらくすると私の演奏や歌の音を拾って曲として弾けるようになりました。これも後から分かったことですが、この頃、絶対音感が身についたようなのです。もちろん、主人と私は伸行に英才教育を施そうという気などさらさらありません。少しでも楽しんでもらいたい。この子の自信になるものが一つでもあって欲しい。その一心だったのです。保育園に入る頃には、簡単な童謡くらいは弾けるようになっていました。初めて視覚障害のあるお友達が入園したということで園の子たちは伸行に少し遠慮がちでしたが、オルガンを弾き出すと皆周りを囲んで「伸くん、すごい、もっと弾いて」と、途端に仲良くなりました。正式にピアノの練習を始めたのは四歳からでした。幸いだったのはご指導を受けた高校教師の増山真佐子先生が、伸行の好きな曲を、彼の喜ぶ方法で教えてくださったことです。先生は最初、ピアノの基礎とされるバイエルの作品から練習を始められました。しかし「この子は、それでは伸びない」とすぐに方向転換されたのです。伸行は楽譜が見えません。鋭敏な耳で音を拾い、それを鍵盤で弾いていくのです。増山先生は伸行の手を取り、鍵盤に指を置いて音を確認するという指導を繰り返し続けられました。伸行が六歳になると、私たち一家は埼玉から東京へと引っ越しました。ここから高校三年生まではピアニストの川上昌裕先生にご指導いただきました。川上先生も伸行の性格を見抜かれたのか、決して無理強(じ)いはされず、褒めながら才能を伸ばそうとされました。伸行もまた、勉強をする時とはうって変わってピアノの練習には極めて然心でした。練習時間は一日二時間と決して長くはないものの、端で見ていても凄(すさ)まじい集中力を発揮しました。負けず嫌いな伸行は「一度注意されたことは二度と注意されたくない」と思っていたようで、次のレッスンまでには必ず課題をクリアします。レッスンが終わっても、即興曲をつくって楽しんでいたので、なかなかピアノの前から離れることがありません。ピアノはもはや、伸行の生活の一部となっていました。レパートリーが増えると、伸行はますますピアノにのめり込みました。そうなると、もう私の出番はありません。親でありながら、一人の熱烈なファンのような気持ちで音楽に聴き入り、その活動を見守るようになったのです。