心の危機を救え
心の危機を救え 梅原 猛 先生より お受験のような苦行を幼い時から強いられたとすれば、人間の創造的知性というようなものは、完全に破壊されるであろう。また、このような生活のなかでは、道徳を教える余裕がまったくないのである。おそらく今の母親は、子どもが嘘をついたからといって、けっして叱らぬであろうが、子どもがテストで悪い点を取ってきたら、厳しく叱るであろう。 このように見ると、戦後の日本の家庭において、道徳の教育とか、心の教育というものは、ほとんど後を絶ったように思われる。この道徳教育に代わって、知能の教育が盛んであったと言えるかもしれないが、これは知能の教育とは言えない。そこで養われる精神があるとすれば、それはむしろ苦行に耐える精神である。 このようにして、戦後の日本においては、家庭における道徳教育、あるいは心の教育ということが、まったく行なわれていない。文学とか芸術というものは、人間というものが、底知れない、深いものを湛えているということを教えるのであるが、このような家庭教育では、もはやそういう芸術を楽しむ余裕がまったくないのである。こういう生活の余暇は、テレビなどを見て過ごされるのであろうが、テレビのマンガなどが、唯一の人間というものについての知識を与える材料である。家庭において、このような道徳とか、心というものについて、何も教えられないとすれば、学校においてはどうであろうか。 「平和と民主主義」は道徳教育ではない 学校においても、同じことなのである。戦前の教育と戦後の教育の大きな違いは、「修身」という時間がなくなったことであろう。修身というものは、私が先に挙げた天皇教、国家教に基づいて、人間の生き方を教えるものであった。そのような道徳は、国家主義道徳といって、マッカーサーの指令によって廃止され、戦後の進歩的な学者によって厳しく批判された。 私は修身教育の廃止にはもちろん賛成であるが、やっぱり道徳について、心について、まったく教えないというのは、これは教育の放棄ではないであろうか。つまり戦前の日本は、曲がりなりにも一つの国家目的をもっていた。それは西欧の科学技術文明を移入し、日本を西欧の列強並みの強くかつ豊かな国にすることであった。日本という後れた国を、そのような進んだ国にするには、やはり日本人の力を統一しなくではならない。その統一の中心に天皇がいる、そういう新しい宗教とでもいうべきものを日本人は創った。それが私が天皇教とか、国家教と言うものであるが、それは少なくとも一つの目的をもっていて、その目的に沿って、はっきりした道徳があり、その道徳に対して、戦前の日本人は誇りをもっていたのである。 しかし、戦後の日本国家は、そのような目的意識をほとんど喪失していたと言わねばならない。「羹に懲りて膾を吹く」という言葉があるが、戦前の理想がまちがっていたというので、もはやなんらの理想も揚げようとしないのである。戦前の道徳がまちがっていたので、もはや新しい理想を掲げようとせず、ただ生きることに汲々としたのである。人間は放っておいても、自己の生活を豊かにしようとする欲望をもつものであるが、日本人はもっぱら己の欲望にのみ従って働き、今日までやってきたのである。 したがって、日本人は自らを規定し、そしてそれを子孫に伝える、いかなる道徳的信条をももってはいなかったのである。そしてしばしば、道徳教育の必要が文部省や、それを後押しする自民党議員によって叫ばれたけれど、それは多く、戦前の国家主義道徳の復活、「日の丸、君が代」の強制であり、戦後の日本人のバックボーンを形成する、新しい道徳の建設という情熱に欠けていたのである。 そして今日までほとんど、道徳教育、あるいは心の教育は、日本の初等・中等教育において行なわれていないが、それは道徳とか心というものに、まったく関心をもたない人間を、無意識のうちに育てることになる。ここから、今回の事件を起こした、あのオウムの青年のような若者が育ったのである。その責任は、ひとり若者だけが負うべきことではないのである。われわれ自身が、深く反省をすべきことなのである。 文部省がこのような道徳教育の必要を説くとき、日教組はそれに対して かならず「それは戦前の国家主義道徳の復活だ」と反対したのである。しかし、反対した日教組が、子どもたちになんらかの道徳を授けているわけではない。この日教組を支配する教師たちは、少なくとも最近まで、マルクス・レーニン主義の強い信奉者であった。 マルクス・レーニン主義は、道徳についてどう考えるか、これはたいへんはっきりしているのである。つまり、資本主義を肯定し、それを継続させるような道徳は悪である。それゆえに、たとえば勤勉とか忍耐とか協調というような道徳は、結局、資本主義における階級の対立を無視し、資本主義を長持ちさせるので、それは悪である。そして、この資本主義体制を倒し、社会主義社会をつくる道徳、そういう道徳こそ、よい道徳である。 日教組はおそらく本心では、こういう道徳を生朧たちに教えたいと思っていたにちがいない。しかしそういう道徳を教えることは許されない。それで、そういう道徳と矛盾する、資本主義を永らえさせるようなあらゆる道徳教育に反対しなくてはならない。そしてその反対の理由を、「国家主義道徳、修身道徳、君が代・日の丸道徳の復活」という理由にすればよいのである。こういう論理の置き換えとか詭弁において、このマルクス主義の信奉者ははなはだ巧みである。このような論理を用いて、日教組は道徳教育に反対してきたのである。 そしてそのかわり、「平和と民主主義の教育」という看板を掲げるが、それは道徳教育としては、実際にはほとんど意味のない教育理念なのである。マルクス主義によれば、社会主義国は平和を好む国であり、資本主義国は戦争を好む国ということになるが、そんなことは嘘である。また民主主義といっても、社会主義社会が、民主主義の国どころか、たいへん貧困で、しかも階級の格差が厳しく、抑圧された社会であることが明らかになった。そして、先に述べたように、日本ほど民主的な国はない。 「平和と民主主義の教育」というのは、つまり、あの社会主義革命の思想をカムフラージュし、そして日本人を危機に陥れている、この道徳の問題を避けて通り、社会主義革命が起こりやすいようにする教育にすぎないであろう。マルクス主義者たちは、今はこのような社会主義革命を起こし、理想の国を創り出しうるという信念を、おそらくソビニト連邦や東ヨーロッパの国の、社会主義社会の崩壊によって、失ってしまっているにちがいない。すると、「平和と民主主義の教育」というのは、いよいよナンセンスになり、マルクス主義者の危険な理想をカムフラージュする偽装ですらなくなっているのである。