芭蕉記念館の展示
先週金曜日、久保田先生とご一緒した時のこと。 芭蕉記念館の展示ね、 あれ、知らせてくれてありがとう。 すごかったね~ どこにあんなのあったの? 家隆の書状なんて、ほんとうに珍しい。と、一気に興奮気味に、こちらに話しかけられた。当日は、私が到着した時点で、すでに少し召し上がっており、舌もなめらかではあったようなのだが、えらく熱っぽく、学問について語ってらした。なかで、私が来る前から、芭蕉記念館での展示、どうやら随分話題に上っていたようだ。 二回見に行かなくちゃ、と思いながら、 結局、いっかいしか見に行けなくて…と、言われて、じん、ときた。そして、お知らせしてよかった、喜んで頂いてよかった、と、心底思った。そう、家隆の書状を、誰よりもお知らせしたかったのが、先生だったから。そして、その通りに、感動してくださったというか、熱くなってくださったから。岩佐先生も、京極派の資料が新たに見いだされたりして、それをお目に掛けたり、お耳に入れたりすると、すっごく興奮される。顔を上気させて、 あらまあ~いいわね~などとおっしゃりつつ、熱心に、御覧になられる。久保田先生の場合は、 でもね、物にばかりとらわれて、 中身を読んで、注釈しないのは、 ダメなんですよ(笑)と、じんわりたしなめられたが、それはごもっとも、また今そういった仕事に、かかってみると、その意味はよくわかる。私は、実は中身を読みたい方の人間だ。それを読んで、ほら、こんなにすごかろ、おもしろかろう、と人に言いたい方だ。しかし、である。他人が読んだ活字を元に議論して、その翻読が間違っていた、ということになったら、こちらの議論は、どんなにすばらしい論理展開であろうと、すべて、木っ端みじんに崩壊する。そういったことは、こわい。活字に全面的に拠るのではなく、いざとなったら、実物を読みこなせる力をつけなくてはいけない。国史大系ですら、疑え。それを、大学の時に教えてくださったのが、久保田先生だ。先日の久保木先生のご講演の内容もそうだったが、自分が目指してきた道の先にあるものは、やはり、間違ってはいないと思う。この道をいけば、どうなるものか。あやぶむなかれ、と言われても、あやぶみつつ、ここまできたが、もう、歩むしかなく、また歩むことにそれなりの意味も、見いだせそうなところまでは、来た気がする。まだまだ、と笑われそうだが、そう、まだまださ。道の途中。まあ、一歩、一歩。それしか、ない、わなあ。