男子三日会わざれば、刮目して見よ!
スクロール画面にしてみました。「男子三日会わざれば、刮目して見よ!」・・・と言います。(“割”ではなく、“刮”です。)もともとは、「三国志演義」における呂蒙という人の言葉「士別れて三日なれば,刮目して相待すべし」から来ています。(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっている、 ということからいつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいもの としてみなさいと言う意味) 呂蒙は黄祖討伐を始め、かの赤壁の戦い、 その後の周瑜の荊州をめぐる一連の戦でも常に大将を務め 戦功を上げる一方、教養は全くといってよいほど無かった。 しかし、主君の孫権から教養の大切さを諭されて勉学に励んだ。 江表伝によると、孫権からは「別に博士になれというのではない、 ただ過去のことを多くしっていてもらいたいだけだ」と言われたのだが、 呂蒙は結局もともとの儒学者にも勝るほどの量の学問を身につけたという。 その後、魯粛の後任として荊州に訪れた呂蒙に対し、魯粛があれこれ質問 してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもスラスラと答えてしまったという。 このため、魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」 (呉にいた頃の蒙(「阿」は“~ちゃん”のニュアンス)ではない)と評し、 それに対して呂蒙は「士別れて三日なれば,刮目して相待すべし」と言ったという。 孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蒋欽を挙げている。 また、このことから、進歩のない人間のことを「呉下の阿蒙」と呼ぶようになった。・・・という前置きはこれぐらいにして、スクロール画面デビューです。(なんせ、“嬉しがり屋さん”ですから、いちいち大袈裟です。)Powerd by テンプレート