戦時下の強制労働動員の原型(29日の日記)
朝鮮半島を植民地支配した日本は、1930年代に始まった民族解放運動を妨害する目的で半島南部の農民を半島北部の工業地帯に労働者として移住させるという事業を実施しました。その頃の様子を、一橋大学准教授の加藤圭木氏は10日の「しんぶん赤旗」に、次のように書いてます; 日本の植民地支配下におかれた朝鮮では、朝鮮総督府の経済政策によって、大多数の朝鮮農民が貧困状態に追い込まれていました。自作農・自小作農が没落し、小作料の高率化や小作権の移動が激しくなるなかで、土地を失ったり、生活が窮迫した農民が日本や満洲へ移住しました。さらに、山林に入って火田民(焼畑農民)となったり、都市で土幕民(バラック住民)となる動きが進みました。 1930年前後の朝鮮では、社会主義運動の影響力が拡大し、農民組合・労働組合運動が高揚しました。社会主義勢力は、貧困層向けの教育施設を各地で整備するなど、人びとの要求を踏まえた活動を展開しました。大衆的基盤をもって民族解放運動を展開していたのです。◆社会主義運動の高揚への危機感 1931年に朝鮮総督に就任した宇垣一成(かずしげ)は、社会主義運動の高揚に危機感を抱き、1933年より官製運動の「農村振興運動」を展開し、農民の不満を抑えようとしました。「自力更生」をスローガンとして、営農技術向上や副業奨励、また貯蓄や家計簿作成などが推奨されました。 しかし、地主制や高額な小作料といった根本的な矛盾を放置し、天皇制イデオロギーを押しつける精神主義的運動としての側面が強かったため、農民の悲惨な状況は変わりませんでした。 朝鮮総督府は、もう一つの方策として人口移動政策を実施しました。それが、1934年に開始された朝鮮南部の農民を北部の労働現場に送り込む「労働者移動紹介事業」です。深刻な貧困状態におかれた農民達は、主として稲作地帯である朝鮮南部に集中していましたので、これを「工業化」や軍事拠点化か進みつつあった北部に送ることにしたのです。 当時、朝鮮では総力戦体制の構築という観点から、「朝鮮北部重工業地帯建設計画」が進められ、満洲への接続拠点として朝鮮北部の羅津港の建設が行われていたのです。 「労働者移動紹介事業」によって労働者のあっせんがはじまると、南部の農民の中には、このまま農村に残って死ぬよりはましだろうと考えて応じる人がでてきました。経済的条件による構造的な強制だったわけです。◆就業詐欺まがい過酷な労働条件 しかも、あっせんに応じたところで、人びとの困難な状況は変わりませんでした。北部の労働現場では、事前に聞いていた額よりもはるかに低賃金であったり、過酷な労働条件だったりしました。さらに、到着したところで住居すら整備されていないこともあり、そもそも仕事自体がないということもありました。これらはいずれも就業詐欺です。また安全対策も不十分で、土木現場や炭鉱では事故が続発しました。あっせんされた人びとの不満が爆発し、抗議したり、逃亡する人も相次ぎました。 1930年代半ば、朝鮮北部「工業化」の進展度は低く、大量の労働者の生活を支えられる状況ではありませんでした。しかし、社会主義の抑制という目的のために南部の農村から農民を引き剥がし、北部に送ったのです。これは棄民政策に他なりません。 「労働者移動紹介事業」は日中戦争以降の強制労働動員の原型となった政策です。戦時期には労働力不足から、朝鮮北部や日本などへの大規模な動員が行われますが、それ以前にすでに人権無視の労働あっせんが存在したのです。なお、いま、主に問題になっているのは日本での強制労働ですが、朝鮮内での労働動員の実態は部分的にしか明らかになっていません。 こうして日本側は、支配の矛盾を何ら解消させることなく、侵略戦争を拡大させ、ファシズムへと突き進んでいきました。そうした中で、朝鮮の人々との間の矛盾はますます拡大していったのです。2020年3月10日 「しんぶん赤旗」 10ページ 「日韓の歴史をたどる-戦時下の強制労働動員の原型」から引用 1930年代に朝鮮半島北部に多くの工場を建てたのは言うまでもなく日本企業でしたから、日本人経営者が朝鮮人労働者を安くこき使おうと考えたことは想像に難くありません。その上、日中戦争が泥沼化してからは日本本土の労働力不足を半島の労働者で補おうとしたのが、今日に至って尚未解決問題として残さされている「徴用工」問題ということです。私が小学校の頃は、朝鮮半島は南が農業国で北は工業国というように説明されていましたが、あの頃の「北」は日本帝国主義が残した工場設備を利用していたのだろうと、今にして思います。しかし、米国政府が敵視政策をやめて企業が自由に投資できるような環境が整えば、地下資源が豊富なこともあり、韓国や中国のように繁栄する可能性は十分にあると思います。