コンドルの系譜 第十話(52) 遥かなる虹の民
「も、もちろん、ちゃんと話したよ……だけど」マルセラの勢いに押されて、やや身を引きながらアンドレスが答える。「だけど……って、なんですか?!アレッチェの担当から、すぐにコイユールをはずしてもらえるんですよね?」「そ、それが……」コイユールに関する今しがたのトゥパク・アマルとのやり取りと、さらに、急遽(きゅうきょ)、旅立たねばならなくなったことを告げたアンドレスを、マルセラの黒曜石の瞳が呆然と見つめる。「そんな……!コイユールも今のままアレッチェを看(み)なくちゃならない上に、こんな時にアンドレス様までいなくなってしまうなんて、あんまりです!だって、そしたら、一体、誰が、あのアレッチェの魔の手からコイユールを守ってやれるんです…?!」普段は人一倍気丈なマルセラが、サッと顔色をなくし、ありありと不安を露わにしている様子を目の前にして、アンドレスの心にも再び暗雲が立ち込めはじめる。「……大丈夫だよ、マルセラ。トゥパク・アマル様は、俺たち以上に、コイユールのことを分かっていらっしゃる感じだったし、直接、コイユールと話すとも言ってくれた。あのトゥパク・アマル様が、決して悪いようにはしないと約束してくださったのだから……」そう語りながらも、アンドレスの胸中にも、本当にこれで良かったのだろうか、という思いが渦巻き出す。――と、その時だった。二人のいる回廊近くの治療場の一室から、ドッと、大きなどよめきと、けたたましい喧騒(けんそう)が上がった。「なんだ?!」アンドレスとマルセラが、反射的に、その治療場の中に飛び込んでいく。そこは、4~50人ほどの軽傷のインカ兵とスペイン兵が療養している広間の一室で、その広間の一隅に十数人の人垣ができている。辺りいっぱいに横たわっている負傷兵たちを踏みつけてしまわないよう気を付けつつも、アンドレスたちは、そちらに大急ぎで駆けていく。案の定、またケンカだった。騒ぎの中心には、ケチュア語とスペイン語で激しく罵(ののし)り合いながら取っ組み合っている、20台後半から30台前半位と見てとれるインカ兵とスペイン兵の二人の男たち。そんな彼らを囃(はや)し立てたり、あるいは止めようとして、集まっている群衆――恐らく、この部屋の負傷兵たち――をかき分けて、ケンカの中心人物たちの傍に寄って、アンドレスは呆(あき)れて大きく溜息をついた。「また、おまえたちか……!」それは、ちょうど今朝方も、まだ夜の明けきらぬ時間帯からケンカ騒動を起こして、アンドレスに注意を受けたばかりのインカ兵のペドロ、そして、スペイン兵のヨハンだった。ふと気付けば、このバカげたケンカ騒ぎの人だかりの片隅で、看護班の義勇兵の少女が一人、半ば震えながらオロオロしている。その少女に、アンドレスが口早に問いかけた。「ペドロとヨハンの怪我の回復具合は?」「は…はい、アンドレス様……。お二人供、もともと軽傷でしたから、もう、すっかり身体はいいんです。ですが、お元気になられたら、ますますケンカが激しくなって……」ちょうどコイユールと同い年位の、そのインカ族の少女の、今にも涙を零(こぼ)しそうな様子を目の当たりにして、アンドレスの怒りに火がついた。「マルセラ、君の短剣を貸してくれ」「――へ?」いつになくアンドレスの険しい声に、マルセラは、己の細い腰に帯(は)いていた短剣を素早く鞘(さや)から抜いて、アンドレスに渡す。それを瞬時に受け取って左手に構え、と同時に、己のサーベルを引き抜いて右手に構えると、ガッチリした体躯(たいく)を荒々しくぶつけ合っているケンカの張本人たちの真ん前まで、ツカツカと歩み寄った。と見るや、両手に構えたサーベルと短剣の切っ先を、ペドロとヨハンのそれぞれの横顔に、隙無くピタリとあてがう。「―――!!」さすがにケンカ中の二人も、己らの顔に触れている鋭利な刃物の冷たい感触に、ギクリ、と我に返って、動きを止めた。その二人の耳に、怒りを押し殺した、アンドレスの冷徹な声が聞こえてくる。「そうだ――また怪我をしたくなければ、そのまま動くなよ。おまえたちにも、それなりに正当なケンカの言い分があることは、今朝、聞いた。だが、だからといって、こうも頻繁に騒ぎを起こして、他の負傷兵たちの静養を邪魔立てする権利はないよな?これだけ、有り余る元気があるなら、おまえたちがこの治療場にいる必要もあるまい。ならば、せっかくだ、その体力と気力を俺のために役立ててもらおうか?ペドロ、ヨハン――おまえたちには、これからしばらくこの砦を出て、俺の旅に付き合ってもらう。とてつもないアンデスの山々を幾つも越えていくことになるだろうが、砦の外でなら、いくらでも殴り合いだって、蹴り合いだって、させてやるぞ。どうだ、楽しそうだろう?」【登場人物のご紹介】 ☆その他の登場人物はこちらです☆≪トゥパク・アマル≫(インカ軍) 反乱の中心に立つ、インカ軍(反乱軍)の総指揮官。 インカ皇帝末裔であり、植民地下にありながらも、民からは「インカ(皇帝)」と称され、敬愛される。 インカ帝国征服直後に、スペイン王により処刑されたインカ皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(トゥパク・アマル1世)から数えて6代目にあたる、インカ皇帝の直系の子孫。 「トゥパク・アマル」とは、インカのケチュア語で「(高貴なる)炎の竜」の意味。 清廉高潔な人物。漆黒長髪の精悍な美男子(史実どおり)。≪アンドレス≫(インカ軍) トゥパク・アマルの甥で、インカ皇族の青年。 剣術の達人であり、若くしてインカ軍を統率する立場にある。 スペイン人神父の父とインカ皇族の母との間に生まれた。混血の美青年(史実どおり)。 ラ・プラタ副王領への遠征から帰還し、現在は、英国艦隊及びスペイン軍との決戦において、沿岸に布陣するトゥパク・アマルのインカ軍主力部隊にて副指揮官を務める。≪コイユール≫(インカ軍)インカ族の貧しくも清らかな農民の少女。義勇兵として参戦。代々一族に伝わる神秘的な自然療法を行い、その療法をきっかけにアンドレスと知り合う。アンドレスとは幼馴染みのような間柄だったが、やがて身分や立場を超えて愛し合うようになる。『コイユール』とは、インカのケチュア語で『星』の意味。≪マルセラ≫(インカ軍)トゥパク・アマルの最も傍近い護衛官である重臣ビルカパサの姪。アンドレスやロレンソと同年代の年若い女性だが、青年のように闊達で勇敢な武人。女性ながらもインカ軍をまとめる連隊長の一人で、ロレンソの恋人でもある。◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆目次 現在のストーリーの概略はこちら HPの現在連載シーンはこちら ★いつも温かく応援してくださいまして、本当にありがとうございます!(1日1回有効) (1日1回有効)