第一回 ウラガエスとヒックリカエス
今回の話は、ボウリングじゃないですよ。笑現在やっている研究の話です。認知言語学の中の「認知意味論」っていうものです。これを、おそらく自分の専門にしていくと思います。「認知」とかって言うと、抽象的で難しく聞こえますが、やっていることはかなり「具体的」です。この研究領域では、語の「意味」の決定の際、人間の認知がどのように関わっているのか、というのが全体に流れるテーマです。その大きな流れの中で、狭い範囲にスコープをあて、具体的な「語」の意味をとらえる、というようなことをやっています。「語の意味なんて、国語辞典を開けばのっているじゃないか」とおっしゃる方がいらっしゃると思いますが、国語辞典というのは、ある点において、意外と非力なのです。その「ある点」というもののひとつは、「類義語」についての記述です。たとえば,,,広辞苑をご覧ください。「かぶせる」の項には「上から おおう」とあり、「おおう」の項には「露出するところがないように、全体に かぶせる」とあります。これではイタチごっこのようなもので、詳細な意味の記述は果たせていないといえます。このジレンマを解消しようとするのが、認知意味論の研究範囲の一領域である「類義語分析」です。たとえば、今、僕が研究していることは「ヒックリカエス」の意味についてです。「ある語」を知ろうとするときに、その「ある語」だけをしかめっ面で眺めていてもわかりません。真昼には、月の光は届きません。月の光を見ることができるのは、その背景に闇があるからです。それと同じで、「ヒックリカエス」の意味をつかむには、そこに隣接する語との比較が必要です。その語に似た意味を持った...すなわち「類義語」と呼ばれるものをその対照として引き合いに出すことで、「ヒックリカエス」自身の性質がわかります。たとえば、「ヒックリカエス」に対して「ウラガエス」を持ってきます。これらの二語はどちらも、英和辞書で「turn」の項に記載されているために、「類義語である」と言うことができます。それが証拠に、 ●配ったカードをヒックリカエしてください。 ●配ったカードをウラガエシてください。これらはどちらも表現として認められます。しかし、類義語は、「意味的に類する語」であって、決して「同義な語」ではありません。そのため「類義語」には片方が使用できて、もう片方は使用できないというケースが必ずあります。たとえば、 ●ドラゴンズが土壇場で試合をヒックリカエした。×●ドラゴンズが土壇場で試合をウラガエした。これは、「ヒックリカエス」のみが使用可能な表現であり、「ウラガエス」ことはできません。この例文をうけて、「ウラガエスは、物質的なものに使用可能な表現」で、「ヒックリカエスは、物質、非物質のどちらにも使用が可能な表現」だと仮定します。「試合」というものが物質ではないから、ウラガエセないが、ヒックリカエスことはできる、ということですね。では、対象が物質ならば、何でもウラガエスは使えるのでしょうか。以下の例をご覧ください。 ●砂時計をヒックリカエス。??●砂時計をウラガエス。人によってそれこそ「認知の差」がありますから、受け取り方や感じ方は違うとは思われますが、砂時計に「ウラガエス」という表現は適しているでしょうか。適しているとおっしゃる方も、きっと「ヒックリカエス」のほうがしっくりくる、と感じるのではないでしょうか。先ほどの「カード」はウラガエスが使用できたのに、なぜ、「砂時計」はウラガエしにくいのでしょうか。どうやら、ウラガエスが使用できる範囲は、作用する対象の形状にも関わるようです。カードをはじめとして、紙や、コースターや、硬貨などは、一般的に厚みがあまりなく、オモテとウラというものを認識しやすいといえます。それに対して、砂時計には、厚みがあります。言い換えれば、私たちは砂時計に「高さ」を感じているといえます。人は、「高さ」のあるもに対して、オモテとウラとを意識しにくい傾向があり、そのような物質には「ウラガエス」と述べることに抵抗があるようです。では、ヒックリカエスはすべての物質に対して有効な表現でしょうか。×●ボールをヒックリカエス。....どうやら、そういうことではないようですね。意味領域の広いヒックリカエスでも、ボールのように、面を持たない対象には作用できません。ここまでをまとめると、●ヒックリカエス<底面を持つ物質に対して><今向けている面とは別の面が><上を向くように働きかける行為>●ウラガエス<比較的厚みがない物質に対して><今向けている面とは別の面が><上を向くように働きかける行為>ということになります。ここまでの論は対象を物質に限定しており、なぜ「試合をヒックリカエス」がいえて「試合をウラガエス」がいえないのか、の論述がまだなのですが、今日は疲れたのでこの辺で。笑読んでくださっている方がいらしたら幸せです。