やっとわかった!
と思いました。変体仮名についてです。昔の日本語の文を読めるように勉強していて、「なぜ、同じ発音を表すのに、いろいろな文字を使うのか?」ということを長年考えていました。 それは、一口で言えば「遊び心」だと思いました。 こう思ったのは、油井宏子さんの「そうだったのか江戸時代」、柏書房、(2011)の中の、江戸時代の古文書について、「漢字もひらがなもカタカナも出てきます。それらを自由に駆使して、いろいろな書き方を楽しんでいるかのようです。音(オン)が合っていて、言おうとしていることが相手に伝わればそれでじゅうぶん、というおおらかで許容範囲の広い世界、正解がたったひとつではない世界だとわかります。」という一節を読んだときです。 これで、もしかしたら、これが、日本人の表音文字に対する考え方なのかな、と思いました。大昔、日本人が、自分の国の言葉の発音を文字で表そうとしたとき、新しい文字を作るのではなく、既に日本に入っていた漢字の音を借りようとしたのです。 そのとき、その考えで、いろいろな人がいろいろな場所で、日本語の一つの発音を表わすために、いろいろな漢字を使い始めたのでしょう。そして、時とともに、その数が次第に整理されてはいったのでしょうが、あるところで、それ以上減らなくなったのでしょう。その理由の一つが上記の油井さんの書いていることだと思います。 さらに、その書体を見る人にとっても、読むときに、ちょっとパズルを解くような気分にさせてくれます。また、書体の美しさや書きやすさという面からも、沢山の文字を使えた方が可能性が増えます。自分で手書きの文書を作ったり、他人の手書きの文章を読むときなども、工夫や楽しみの範囲を広げてくれます。知的な遊びとも言えるでしょう。必要最小限の文字の数にするのではなく、その他にいろいろな文字を使うことを許すという、余裕というのでしょうか、のんびりとしたというのでしょうか、いい加減さが、文字を書いたり、読んだりすることに、面白味を加えてくれるのです。いろいろな書き方が許されていたのです。いや、むしろ推奨されていたのです。これは、日本語の大事な特徴と言えると考えます。 現代でも一つの言葉や音の書き表わし方がいろいろありますが、論文などでは、一つの表わし方に統一し、冗長性も少なくしてあります。しかし、今書いている、論文「(私の)問題解決の考え方」では、私が編集者なので、なんでもありです。そのときの思い付きでいろいろな書き方をしています。そして、あえて、それを修正しようとしないことにしています。こういういい加減さも私の一部だからです。 つづく