ゲルギエフとショスタコーヴィチ~ウクライナ戦争で吹き荒れた逆風と追い風
ロシア出身の世界的指揮者:ワレリー・ゲルギエフ氏が、あっちこっちのオケでやっていた指揮者としての地位を剥奪されたそうだ。欧米社会では、芸術家と云えども世俗の事件について態度を明確にせねばならない時もある。特に氏は、プーチンとの結び付きを以前から指摘されておった。自らの態度を明確にしない限り、覇権国家の威を借る狐とみられてしまうのである。ゲルギエフで思い出したのは、ロシア軍が南オセチアに軍事侵攻した際に「ショスタコーヴィチ:交響曲第七番レニングラード」を演奏したことに対する違和感だった。ゲルギエフ氏がはっきりとロシア軍の行動を支持した背景は、それはそれは複雑な事情があるんだろうなと思ったが、ショスタコーヴィチが第七番を書いた本当の意味は、あんた方の思惑とは別の次元にあるはずでしょ?と思ったな。時の政治権力に忖度して書かれた訳じゃないことぐらい、分かっていたはずだ。拙者は、あの時の複雑な気持ちがずっと脳裏を漂い続けることになり、拙書「誰かが見た結末」の作中、ソ連軍に包囲された街で「ショスタコーヴィチ:交響曲第七番レニングラード」を演奏すると云う、皮肉としか言いようが無い場面を創るきっかけとなったのだ。ゲルギエフさん、貴重なヒントをありがとう。ロシアと云う国にまつわる如何なる事象も忌避される風潮の最中、拙者はあるニュースに釘付けになった。名古屋の交響楽団が、ショスタコーヴィチ「交響曲第八番」を堂々と演奏したのである。第八番は、第七番と共に「戦争交響曲」のシリーズであり、作品に対する解釈や、演奏そのものも難解な楽曲である。拙者は何だか「誰かが見た結末」の皮肉な場面に酷似した、ある意味強烈な風刺を見るようで、愉快でならなかった。演奏会の企画がたまたまタイミング良く被っただけらしいが、このまま決行すべきか議論もあったそうである。もちろん、観客の皆さんは深い感銘を得たことであろう。このようなニュースに触れると、もっとショスタコを聴いてみたくなった。結局、ロシアのクラシック音楽をもっと聴きたくなると云う皮肉なことになっている。拙書「誰かが見た結末」ちなみに、「誰かが見た結末」の表紙写真がひまわり畑だったことから、ウクライナのひまわり畑のシーンで有名な「映画:ひまわり」を連想させる結果となってしまった。実は鹿児島県指宿市内のひまわり畑なのであります。「全面核戦争で人類滅亡」と云う、ハズレまくった予言書に関する物語なのだが、読者の方から「本当に当たるんじゃないかと思って読むの怖くなって来た」と云う声もいただいた。 当初、何故ウクライナは降伏しないのか?と云う疑問の声が巷に溢れていたような気がする。有識者でも、同じように発言している人がいた。市民の犠牲は増え続けているのに、何故彼らは無駄に抵抗を続けるのかと。先の大東亜戦争において連合軍に降伏した日本が、米英軍の占領を経て見事に復活した訳だが、其れは単に運が良かったと云うことを見落としているのだろう。アメリカは、例えば本土への空襲や原爆投下にみられるように、徹底的に日本を破壊したことは事実だ。だが、戦後は日本の復興のために莫大な持ち出しがあった。自由と民主主義と云う価値観を押し付けたりはするが、開拓精神のお国柄だけに、常に創造的なのである。其れに対してソビエト=ロシアはどうか。彼らは被占領国の人間を抑留して、自分達の為だけに「ただ働き」を強いる。占領地の資源を収奪するだけなのだ。旧東ドイツの国鉄は、ソ連によるレールの接収によって、ヒトラー時代の鉄道網さえ完全に復興出来なかった。出来なかったのではなく、させなかったのだ。新幹線まで作ることが出来た日本は幸福である。 最近の報道によると、ロシア側の支配下に入ったウクライナ人が、サハリンに送られるのではないかと云う憶測が出ている。やってることは、スターリン時代と何も変わらないのだ。スターリン圧政下、ウクライナ人が大量に餓死させられた歴史がある。ロシアに支配されると如何なる結果をもたらすのか、当のウクライナ人が一番良く分かっているのだ。だから彼らは全てを失うことは百も承知で抵抗するのだ。見たことあるロシアの女優さんが亡命へグッバイ、レーニン! [ ダニエル・ブリュール ]旧東ドイツ崩壊のドタバタをコメディタッチで描いた拙者のお気に入り映画「グッバイ・レーニン」に出演したチュルパン・ナイーレヴナ・ハマートヴァさんが、滞在先のラトビアから亡命するとの報道があった。ソ連出身の留学生と云う役柄で、東ベルリンに住む主人公の青年と恋に落ちる筋書きであった。独ソの恋人同士で世界の移り変わりを肌で感じながら共に成長していく姿は、新たな時代の希望を見るようであった。その彼女が「グッバイ・ロシア」とは何とも皮肉と云うか、あの映画の伏線のようでならなかった。事態打開の一筋の希望であって欲しいものである。