大阪城を追いかけて来た。(後編)
(少しも面白くなかった前編から続く)前編は第二寝屋川沿いにひたすら西へ下って行ったんだけど、最後の環状線のガードを潜り抜けて細い階段を登ったところは「弁天橋北詰」という交差点OBP(大阪ビジネスパーク)の東南角になる。いよいよここからは大阪城エリアになるんだ。↓どの写真も写真をクリックしたら大きな写真にリンクするよ♪ここは弁天橋北詰の交差点わきから第二寝屋川の川べりへ降りたところ。 大阪城と大阪城ホールが並んで見えるのは良かったんだけど、もう西陽が低くなっててほとんど陽が当ってなかったよぉ(^_^;)対岸の大阪城ホールが切れるあたりから大阪城方面を写した写真。川の対岸に大きく口を開けてるのは「大阪砲兵工廠」の水門跡。 砲兵工廠が稼動してた頃はこの水門を使って資材が運び込まれたそうだ。大阪砲兵工廠は明治の初め元長州藩士大村益次郎の構想の元に建設された軍事工場で東洋一の規模を持ってたらしい!太平洋戦争の終る1945年8月15日未明に空襲によってボロボロに破壊されてしまったんだって(>_<)なんせ、OBPの全域と大阪城の北と東の大阪城公園の全域とその更に東、環状線の東側の広い範囲まで広がる巨大施設を一気に破壊したんだから、きっと何万発の爆弾と焼夷弾を落としたんだろうな…。この破壊されてあちらこちらに鉄骨がむき出しになってしまった大阪砲兵工廠跡は戦後何十年もそのまま放置されていたらしい。なんせ雨あられとばら撒かれた爆弾の中には沢山の不発弾もあったみたいで撤去するのも大変だったんだろうな。この大阪砲兵工廠跡を舞台にした小説に開高健さんの『日本三文オペラ』がある。さらに、大阪砲兵工廠跡を舞台にして『日本三文オペラ』をパロった小松左京さんの『日本アパッチ族』というのもある。どちらも、凄く優れた小説だと思うし面白かったんだけど、絵空事として読めたら良いんだけど、この場所を知る大阪人としては少し辛いものがあるんだよな…。でも、まぁ『日本アパッチ族』はSFだから絵空事ではあるんだけどね。水門跡から少し下った新鴫野橋からの大阪城だよ。この橋が第二寝屋川最後の橋なんだ。この先で第二寝屋川は寝屋川に合流するためさらに下流に行くために、このあと新鴫野橋を渡って更に下った。新鴫野橋を渡り大阪城の外堀沿いに行くと、重さ数千トンとも言われてるこんな巨大な鉄の塊りがある。 これは大阪砲兵工廠の遺跡で溶鉱炉の底にあったんだそうだ。 歩道端の縁石が切れてるから地中まで埋まってるんだと思う。京橋口まで来た。これは、京橋口から入ったところにある大阪砲兵工廠の守衛詰所だとかトイレだとかいわれてるそうだ。京橋口の大阪城公園入り口に建つ大阪砲兵工廠の石碑。 「明治天皇聖躅」と彫ってあるから明治天皇がここに留まったということなのだろうけど、いくら調べても詳しいことは分からなかったよ。大阪砲兵工廠化学分析場跡。1919年(大正8年)築だそうだ。この建物も京橋口にあるんだけど、今はその回りを駐車場にしてるぐらい良い場所だしネオ・ルネサンス様式の建物もかっこいいしレストアして何かに利用したら良いのになぁって思ったな。大阪橋(京橋)の上からOBPの高層ビル群を望んだところ。 この川は寝屋川でOBPの北側に沿って流れてきてるのが見える。OBPの手前に右から第二寝屋川が合流してるのが少し見えるからOBPが寝屋川と第二寝屋川に挟まれた三角形の土地なのがここからは見て取れるよね。右の方に城見橋からの大阪城をマスキングしている環境事業局の赤白煙突も見える。大阪橋(京橋)の上から大阪城を望むと大阪砲兵工廠化学分析場跡と大阪城が並んで見える。大阪砲兵工廠化学分析場跡はここから目の前に見えるのだから立地条件も抜群なのが分かるでしょ。この橋が「大阪橋」という名前であることをこの写真を撮るときに初めて知ったんだ。 このときまでは京橋だと思ってたんだけど、この歩行者用の橋の名前は「大阪橋」だった。長らく大阪に住んでたけど「大阪橋」という名前の橋があることを知らなかった。右に見えてる線路は京阪電車で、ちょうど京阪電車が地上から地下に潜るところが見えてる。ここから地下に潜ったところに天満橋駅があり終着のターミナル駅淀屋橋駅まで地下を走ってるので、天満橋から久しぶりに京阪電車に乗り、淀屋橋で地下鉄御堂筋線に乗って帰路についた。大阪にもまだまだ「おもろー!」な歩きルートがあると思ったよ(^^♪”「城見橋」から大阪城を見てみよう!”というだけの始まりだったのだけど天満橋まで歩くという訳の分からない事になってしまった(^^ゞ