信濃の国の歌の説明!
第五章節は調子を戻して歌う,信濃の文武の偉人の紹介である木曾義仲は巴御前と武勇で知られる。倶利伽藍峠で牛を使って平家を最初に破った事は著名。墓が木曾の福島にある。信濃は戦国時代甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の角逐の地で後世に名を残す武人が乏しい。真田幸村であっても良かった筈だが。仁科五郎信盛(盛信の誤り)は,武田信玄の五男で、兄武田勝頼の命により高遠城に詰め、天正10(1582)年織田信長に滅ぼされた最後の仁科(今の大町)城主である。太宰春台は飯田出身の江戸の経済家者。佐久間象山は松代出身の開国の思想家。ともに幕末に活躍した。第六章節碓氷峠1180mは日本武尊(やまと たけるのみこと)の古から、信濃へ入る峠で、交通の難所であった。日本武尊は、景行天皇の皇子で、東征の折りこの碓氷峠で、弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び、”東南を望りて三たび嘆きて曰く「吾嬬はや」とのたまふ”と日本書紀にある。弟橘姫は海神の怒りを鎮める為に海に身を捧げた日本武尊の妾。 明治10年から進められた信越本線の難工事は26のトンネルを碓井峠に掘削し、そこにアブト式のレールを敷いた。上野・長野間に初めて汽車が通じたのは明治26年。麓の横川駅は387m、軽井沢駅は939m、標高差552m、66.7/1000の急勾配を汽車はあえぎあえぎ登った。当時の衝撃的出来事であった。是をきっかけに峠の往来が寂れていった。平成9年(1997)10月1日長野行き北陸新幹線の開通により、この横川・軽井沢間は廃線になった。在りし日の碓氷峠越えの鉄道文化を碓氷峠鉄道文化むら応援団ホームページ [群馬県碓氷郡松井田町横川駅]が伝えている。以上信濃の国の説明でした!信濃の国の歌終了!それでは皆様良い週末をお過ごしください!