友人の友人の友人は・・・
スタンリー・ミルグラム (1933 - 1984) というアメリカ人の心理学者がいる。彼の名前を最も有名にしているのは、「アイヒマン実験」 とも呼ばれる、「権威への服従」 に関する実験だろう。 この実験は、イスラエルで行われたアイヒマン裁判を受けて、なぜ彼のような一見平凡な人間が、「ユダヤ人虐殺」 のような非人道的行為をなしえたのかを、心理学の面から明らかにしたものである。 実験は、「生徒役」 を演じる役者と、そのことを知らされていない一般から募集された 「教師役」によって行われた。「生徒」 と 「教師」 は別室に分けられて、「生徒」 の声だけが、インターフォンによって 「教師」 には聞こえるようになっている。 「教師」 の質問に対して 「生徒」 が答を間違えると、「教師」 は罰として電流を流すボタン (実はうそ) を押すように設定され、さらに 「生徒」 が回答を間違えるたびに、強い電流を流すように 「教師」 には指示されており、一方 「生徒」 のほうには苦悶の声や叫びをあげるように指示されている。 実験の結果は暗澹たるものだった。途中でやめた者もいたそうだが、ほとんどはいっさい責任を負わないということを確認したうえで実験を継続し、中には、電流を流した後、生徒役の絶叫が響き渡ると、ひきつった笑い声を出すものもいたということだ。 この実験では、人間は自己の行為になんらかの 「正当性」 という根拠が与えられていて、自己の責任を解除されている場合、どこまで残酷になれるかが示されている。そのような 「残酷さ」 を可能にする根拠は、実社会ならば、たとえば、法律や規則、上司の命令、ビジネス上の必要性など、いくらでもある。 以前、内田樹さんがブログで、お師匠さんのレヴィナスについて触れながら、次のようなことを書いていた。システムが正義や理性を体現することがあってはならないし、そのようなシステムを構築しようと望んでもならない。というのは、もしそれが可能であったとしたら、それが完成したあと、もう個人にはする仕事がなくなってしまうからである。個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを 「道徳的な社会」 と言うことができるであろうか。レヴィナス先生、こんにちは ここで内田さんが言っている、「正義と理性のシステム」 とは、システムがすべての責任を負い、その結果、具体的な個々の人間は、その行為についていっさいの責任を解除された社会と言うことができるだろう。それは、言い換えれば、あらゆる人が 「アイヒマン」 になりうる社会と言ってもいい。 むろん、現実的には、そのようなシステムを構築することは不可能だ。システムを構成するのも人間である以上、そのような 「無関心」 な個人で構成されたシステムが、完全なシステムになりうるはずはない。 しかし、「ソビエト型社会主義」 のような、国家と唯一の党が社会のあらゆる領域に介入し、管理する社会とは、理論的にはそういうものであり、そこでは、匿名の顔を持たない党と国家がすべての責任を負うのだから、個人はいっさいの責任を負わなくともよいということになる。 だが、そこまでいかなくとも、国家と行政装置、社会システムが極度に肥大した、現代の社会には、多かれ少なかれ、そのような側面がある。「食品偽装」 問題でもそうだが、人々は、あらゆる問題について行政の介入を求め、些細なことについてまで行政の責任を追及する。 その結果、システムはますます肥大化し、屋上屋を重ねるような規制が設けられて、社会はますます窮屈になってゆく。むろん、世の中はいわゆる 「自己責任論」 で片付く問題ばかりではないし、政治には負って貰わなければならない責任もある。ただ、いまさら 「夜警国家」 に戻ることは不可能にしても、ここには考えるべきことがあるように思う。 さて、彼の名を有名にしているもうひとつの実験は、「スモールワールド問題」 と呼ばれていて、世間が実はいかに狭いかということを立証した実験である。 こちらの実験では、ある人からその人にとってまったく面識のないある人まで、友人の友人の友人というようにたどっていくとして、いったいどのくらいでメッセージが届くかが調査された。その結果、だいたい6人から7人め程度で、メッセージは無事に最終的な宛先まで到達したそうだ。 たとえば、各自がお互いに重ならない友人を20人持っているとすると、その人数は6人目では、20の6乗、つまりえーと、64,000,000人ということになる。30人なら、30の6乗、つまり729,000,000人である、 おおー。 ということは、いまネットでやりとりしている未知の方々も、ひょっとして「友人の友人の友人の・・・友人」 である可能性が大きいということだ、 うむむである。 以前、鳩山邦夫法務大臣は 「友人の友人にアルカイダがいる」 という発言で物議をかもしたが、一般の人間でも、ひょっとすると 「友人の友人の友人の・・・・友人」 ぐらいには、アルカイダがいるのかもしれない。