public という概念について
英語の単語で日本語に訳しにくいものに、public という言葉がある。一般には 「公」 とか 「公共」 とか訳されるのだが、どうもしっくりしない。辞書をひくと、「社会」 とか 「世間」 といった訳語ものっていて、たぶんこっちのほうが本来の語感に近いのだろう。 たとえば、public domain という言葉がある。例をあげれば、著作権や特許権で保護されていない、誰もが自由に利用できる技術や情報などを、public domain に属するという。また public knowledge は、普通 「公知」 などと訳されているが、これも同じように、特定の個人や団体が独占しているのではない、広く一般に知られた知識のことを意味する。 ところで、public の反対は private である。一方、「公」 の反対は 「私」 である。であるから、public は 「公」 に対応し、private は 「私」 に対応する。ここまでは、たぶん誰からも異議は出ないだろう。 ところが、日本語には 「公」 と 「私」 という対語のほかに、「官」 と 「民」 という区別もある。むろん、英語の public も、「民」 に対する 「官」 という意味で使われることもある。だが、一般的な語感としては、むしろ 「社会一般に開かれた」 という意味のほうが強く、そのように使われる場合のほうが多い。 たとえば、public company とは公営企業のことではなく、純然たる民間企業、ただし、株主を広く一般から募集する 「株式公開会社」 のことを指す。つまり、「公」 とは けっして 「官」 のみに限定されないのであり、それだけでなく、ときには 「官」 をも規制する、「官」 よりもはば広い概念として理解されている。 しかし、日本語で 「公」 といった場合、どうも単純に 「官」 と等置されやすいようだ。必ずしもそうではないと頭では理解している人であっても、「公」 という言葉には、なにかそのような響きがあることは否定できないだろう。こういう言葉のずれの背景には、「公」 という言葉がもともと朝廷を指す言葉であったという語源的な事情もあるのだろうが、おそらくそれだけではない。 ここで話はいささか飛躍するが、そもそも近代国家というものには、「公」 を 「官」 すなわち 「国家」 が独占するという傾向がある。そのような傾向は、とりわけ「近代社会」 がそれまでの歴史の中から自生的に発達してきたのではないこの国では、特に強いようだ。 そのそもそもの始まりは、明治国家によって、社会に対し強引に上から一元的な統制がかけられたことにあるのだろう。そこでは、官とはつまり 「お上」 のことであり、「公」 の問題というものは、すべてそのような 「官」 に任せるべきことなのである。 そしてそのような 「官」=「公」 という意識は、戦後社会の否応なしの近代化によって、それまで存在していた様々な自生的秩序の崩壊が進行してきたことで、下からも支えられ、かえって強化されてきたようにすら思える。 そこでの意識の違いはせいぜい、かつては 「官」 とは 「ははーっ」 と無条件でひれ伏す対象であったのに、現代では逆に、お客様としてあれこれと文句をつけ要求する対象であるということの違いにすぎない。どちらにしても欠けているのは、「民」としての 「社会」 そのものが、ほんらい public としての 「公」 なのだという意識である。 そもそも、社会全体から切り離されて、自立化した 「官」 とは、実際にはそれ自体一つの 「私」 にすぎない。政治家や官僚の腐敗とは、そういうものである。同時に 「公」 としての意識を持たない 「民」 とは、たんなる無責任な 「私」 の集合でしかない。 とはいえ、もともと英語での public に当たるような概念が、けっして日本に存在しなかったわけではない。「世間」 という言葉がそうだ。本来、「世間に顔向けができない」 というような言い回しは、自分や自分の家族、仲間内だけでない、広い社会一般に対する責任意識のようなものを表していたはずだ。 しかし、昨今の 「世間」 とは、むしろ愚にもつかぬ 「正論」 と匿名の 「正しさ」 によって、気に障る個人を押しつぶしたり、たまたま明るみに出たつまらぬ 「事件」 で大騒ぎしているだけの、裸の 「私」 の集まりでしかないように思える。そこでは、叩かれている者と叩いている者のどちらをとっても、public という意識が欠けていることでは大差ないように見える。