マイケルが死んだ
一昨日のマイケル・ジャクソン死去のニュースには驚いた。まだ50歳、死因は心臓麻痺ということだが、これは前の世代のもう一人のスーパースター、エルヴィス・プレスリーの場合と同じである。プレスリーが死去したのは1977年、42歳だったそうだから、マイケルよりもまだ若い。プレスリーのデビューは50年代中頃であり、若い頃の画像をYoutueで探すと、ほとんどがまだ白黒であるというのには、時代を感じさせる。 プレスリーが生まれたのはミシシッピ、育ったのはテネシーで、いずれも南部に属する。おそらくは、そのことが、彼の歌に大きな影響を与えたのだろう。家族と写っているプレスリーの少年時代の写真を見ると、戦後すぐの頃のアメリカ南部の白人の暮らしが、けっして豊かではなかったことがよく分かる。今はそうでもないかもしれないが、南部での黒人差別の厳しさは、たぶんそのこととも無関係ではないだろう。 いっぽう、こちらでは、東国原宮崎県知事の例の発言をめぐって、なにやら大騒ぎのようだ。最初は出馬要請を断るための口実かと思っていたが、そうでもなく、結局、自分が自民党総裁選に出馬することを認めろという話らしい。現在の規約では、出馬には20人の推薦人が必要ということだが、そうすると、出馬に必要な推薦人を党の側で用意してくれということなのだろうか。これもまた、ずいぶんと筋の違うわけのわからぬ話である。 そもそも、一政党が県民の頭越しに、現職の知事に出馬要請をするというのがおかしな話なのだ。そうであるなら、まずは宮崎県民の皆様に、お伺いを立てるというのが筋だろう。ようするに、この話でいちばんなめられているのは、あいもかわらず地方の住民だということになる。東国原知事がどうするかは知らないが、自民党の支持率が下がっている中、県民を足蹴にするようなことをすれば、選挙がどうなるかはわかったことではない。 今頃になって、解散権がどうの改造がどうのと言っている、麻生首相や細田幹事長にしろ、なにがしたいのかさっぱり理解できない鳩山弟にしろ、自分の党の都合しか考えず、地方をなめきった古賀選対委員長にしろ、この国の政治家は、自分がとうに裸であることを知らぬ 「裸の王様」 ばかりである。こうも 「裸の王様」 が多くては、目のやり場にも困ってしまうではないか。 前の記事に続けて、昔の話をもうひとつすると、学生時代の先輩にYという人がいた。神戸の灘高の出身で、話によれば、高校生のときの69年に大阪で行われ、糟谷孝幸という岡山大の学生が死亡した、70年安保の11月決戦デモが人生最初のデモだったというとんでもない人で、亡くなった作家の中島らもと、たぶん同学年ぐらいになるはずだ。 その人は、おもに在日韓国人支援の運動に関わっており、小倉の大韓基督教会の牧師だった崔昌華さんを招いた講演会などを学内でやっていた。崔昌華という人は、かの金嬉老事件で、彼を説得するために現地静岡の旅館に駆けつけたという人でもあるが、当時はNHKを相手に、自分の名前はサイ・ショウカではない、チョエ・チャンファである、勝手に日本語読みをするな、という訴訟を起こしていた。その後、外国人登録証への指紋押捺拒否の運動なども展開していた。 当時の日本では、韓国の朴正煕政権は、左派やリベラル派によって軍事独裁とかファシズムなどと呼ばれて強く批判されており、投獄されていた詩人の金芝河に対する支援などの運動もさかんだったのだが、彼は自分が行っている運動に対して、そのようなスローガンが持ち込まれることをいっさい認めなかった。それは、在日韓国人支援の運動にそのような政治的スローガンが持ち込まれ、運動が特定の政治性を帯びてしまうことが、支援していた人たちとその運動に対して不利益となることを、じゅうぶんに理解していたからだろう。 とはいえ、自分が左翼であることを隠していたわけではない。それは、彼が付き合っていた向こうの人たちも、十分に知っていたことである。彼の下宿に行くと、トロツキーからローザや毛沢東まで、ありとあらゆる著作が壁一面に並んでいるという、とてもただの学生とは思えない人でもあった。とにかく、この人にはとてもかなわないと思わされた人でもある。 彼には、大学を出たばかりの 「できちゃった婚」 で途方にくれていたところに、自分が勤めていた塾に紹介してもらったりと大恩があるのだが、その後、そこがつぶれてそれぞれ別のところに移り、付き合いが途切れてしまった。風の噂では、その後、弁護士となり、在韓被爆者や在日コリアンの年金などの問題でも活躍しているらしいから、その筋の人なら、誰のことだかたぶん分かるだろう。 関係ない話だが、70年代には、サルトルもファノンも、左翼学生にとっては必読文献のひとつであった。なにしろ、三上寛はあの野太い声で、「サルトル、マルクス並べても 明日の天気はわからねえ」(参照)と歌い、サングラスをかけた野坂昭如は、ウィスキーのテレビCMで、「ニ、ニ、ニーチェか、サルトルか、みーんな悩んで大きくなった」(参照) と下手な歌を歌っていた時代でもある。若い人がサルトルを復権させようというのはかまわないが、そのくらいのことは常識として踏まえておくべきだろう。 もうひとつ、宗教団体(?)である幸福の科学が、選挙に参加するために幸福実現党なる組織をつくり、あちらこちらで運動している。こちらでも青いTシャツを着て、のぼりを掲げた運動員を街頭で見かけたのだが、幸福を実現するという言葉を掲げれば、幸福が実現できるのなら誰も苦労しない。運動にとって、スローガンというのはたしかに重要だが、看板だけの中身のないスローガンや、理解しがたいスローガンでは意味がない。