数という概念、または数えるということについて
ニュートンと、微積分についてどっちが先かという争いをしたことで有名なライプニッツに、「世の中に、まったく同じ2枚の葉は存在しない」 という言葉がある。 この言葉は、どこかのお后様と宮殿の庭を散策していたときの言葉だそうだ。言われてみればまったくそのとおりである。人間が一人ひとり違うように、イヌやネコも一匹一匹違うし、同じ樹の葉もまた一枚一枚違うものだ。 ところで、ものを数えるという行為は、このけっしてまったく同じではない、世界内の具体的な個物を、一定の水準の共通性に基づいて同等のものとみなすことによって、初めて可能になる。 言い換えれば、白雪姫が食べた毒入りの真っ赤な林檎も、そうでない甘い林檎も、林檎としては同じあるとか、あるいは猫よりも小さなチワワも、子牛のように大きなグレートデンも、犬としては同じであるなどとみなすことによって、はじめて1個, 2個の林檎、1匹, 2匹のイヌというような数概念の成立も可能になり、そのような数に基づいて数えるという行為も可能になるということだ。 つまり、数という概念が成立するには、この林檎やあの林檎、このイヌやあのイヌではなく、林檎一般だとかイヌ一般だといった、個物を超えた一定のレベルの一般的な概念の存在が前提なのである。 このような一般的な概念は、様々な個物を比較検討し、あれはよく似ているけどナシであって林檎ではないとか、これはちょっと色が違うし、腐りかけているようだけどやっぱり林檎なのだというように、互いを関係付け判断するという作業によって成立する。 ようするに、このような概念は存在を直接に反映するのではなく、存在を関係において判断することによって成立するのであり、当然のことながら、個物を一般性において捉えることで成立可能となる数という概念もまた、関係を含んでいるということになる。 当たり前のことを言うようだが、そもそも関係を含まない判断はありえない。数もまた、たとえ自然数であっても、一般的な概念である以上、直接に世界の中に存在しているのではなく、関係に関する一定の判断のレベルにおいてしか語りえないものだ。たとえば、2匹のイヌと2匹のネコが、「動物」 というより一般的な判断においては、4匹となるように。 であればこそ、人はみな自己が最も大事にする者については、その他大勢と同じただの人間として数えることを拒否するのだろう。なぜなら、数えるという行為は、すでに、その他のものとは交換しえない、その他のものとは同等視しえない、そのものだけの固有性を否定することだからだ。