芥川龍之介 「南京の基督」
先日、近所のビデオレンタル店で、放出されていた 「南京の基督」 というビデオを買った。原作は芥川龍之介であるが、監督はトニー・オウという香港出身の人、日中合作ということらしいが、主演は富田靖子である。 もともとこの芥川の原作はとても短い掌編なので、これだけでは2時間映画にはならない。そういうわけで、芥川のほかの作品もとりまぜて1編の映画に仕立てているのだが、結局のところ、南京という場所の設定と、主人公である若い中国人娼婦の名前を除いて、原作とはまったく関係のない悲恋映画になってしまっている。 芥川がもともとこの小品の中でいちばん言いたかったのは、たぶん最後のほうにある次のような箇所だろう。「おれはその外国人を知っている。あいつは日本人と亜米利加人との混血児だ。名前は確か George Murry とかいったっけ。あいつはおれの知り合いのロイテル電報局の通信員に、基督教を信じている、南京の私窩子を一晩買って、その女がすやすや眠っている間に、そっと逃げて来たという話を得意らしく話したそうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊っていたから、顔だけは今でも覚えている。なんでもやはり英字新聞の通信員だと称していたが、男振りに似合はない、人のわるそうな人間だった。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまったのは、ことによるとこの女の病気が伝染したのかもしれない。しかしこの女は今になっても、ああいう無頼な混血児を耶蘇基督だと思っている。おれは一体この女の為に、蒙を啓いてやるべきであろうか。それとも黙って永久に、昔の西洋の伝説のような夢を見させて置くべきだらうか……」 金花の話が終った時、彼は思い出したように燐寸を擦って、匂の高い葉巻をふかし出した。さうしてわざと熱心そうに、こんな窮した質問をした。「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度も煩はないかい。」「ええ、一度も。」 金花は西瓜の種を噛りながら、暗れ晴れと顔を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。 むろん、そのように他人に病気をうつしたところで、自分の病気が治るわけはない。それによって、実際にそのような小康状態になることがあるのかどうかまでは知らないが、いずれにしても、この少女が抱いているのが 「無知」 に基づく幻想であることはいうまでもない。 若い頃のマルクスに、「宗教は・・・民衆のアヘンである」*1 という有名な言葉がある。この言葉は彼の宗教否定論の根拠として、批判派から支持派からも必ずといっていいほど持ち出されるが、彼がここで批判したのは、なによりもそのような 「逆境に悩める者のため息」*2 でもある、アヘンとしての宗教を必要とする社会である。 そのような社会の状態が変革されれば、少なくともその限りでは宗教の役割は終わるだろう。しかし、具体的な治療法も存在せず、またはたとえ存在したとしてもその利用が現実的には不可能だというのに、苦しむ病人からただ鎮痛薬としてのアヘンのみを取り上げるというのは単なるサディストの行いにすぎない。マルクスが主張したことは、そんなことではない。 ちなみに、魯迅は 「私はひとをだましたい」(岩波文庫の 「魯迅評論集」 所収)という小文の中で、「私は人々の失望する有様を見ることをすかない。もしわが八十歳の母上が、天国はあるかと問われたら、私は躊躇することなくあると答えるだろう」 と書いている。 最近は、このレンタル店ではDVDが主流になっていて、古いビデオは次々と安値で放出されている。ほかにも 「悲情城市」 などのアジア映画も100円で買ったのだが、ビデオデッキも昔のレコードプレーヤと同じように、すでに各社で生産が停止されているらしい。そうなると今のデッキが壊れてしまうと、わが家のビデオも30年前からの死蔵LPなどと同じ運命をたどることになる。 たしかに、過去の映画でもそれなりに名のある作品などはDVD化が進んでいるが、むろんすべてのビデオがDVD化されるわけではない。多くの買い手がつく見込みのない作品は、たとえどんなに優れていても当然のことながら放置されるだろう。 そういうわけで、とりあえず今のうちにいくつか買い込んでおき、よく見て記憶にとどめておかねばならない。なにしろ、うちのデッキはぽんこつなので、いつ壊れるか分からないのだ。もっとも、たぶんどっかの会社で、細々ながら製造が継続されることになるとは思うが。*1,2, 「ヘーゲル法哲学批判序説」 より