わが子を食らうサトゥルヌス
とうとう2009年になってしまった。もっとも、そうは言っても、時間に明確な区切りがあるわけではなし、地球が太陽の周りをぐるっと一周したというだけのことだが。 報道によると、今年の正月は例年より1秒長くなっていたらしい。なんでも1日の午前8時59分59秒の次に、8時59分60秒というのが挿入されていたとのことだ。1秒などと言われても、瞬きする間に過ぎてしまうようなものだが、外国通貨だの証券だのの取引をしている人にとっては、その1秒が損得の分かれ目になりかねないそうだ。 そういう人にとって欠かせないものといえば、精度の高い時計ということになるだろう。そういう時計のことを、一般にクロノメータというそうだが、その語源はギリシア神話に出てくる時の神 「クロノス」 にある。また 「クロノロジ」 と言えば、年表や年代記のことを意味する。 スペインの有名な画家ゴヤの晩年の作に、「我が子を食らうサトゥルヌス」 という絵がある。サトゥルヌスというのは、ギリシア神話のクロノスに当たるローマの神だが、将来自分の子に殺されるという予言を怖れたクロノスが、生まれてくるわが子を次々と呑みこんだという話をモチーフにしている。 クロノスの妻が最後に産んだ子がかのゼウスであり、その 「どうかこの子ばかりは」 という願いを聞いた両親である天と地、すなわちウラノスとガイアによって、赤ん坊のゼウスは遠い所へ隠され、クロノスは代わりに産着に包んだ石を呑まされる。ところが 大いなるクロノスは これらの子供たちを呑みこんでしまわれたのであるその子供たちが 聖い母胎から膝へ生れ落ちる片端から。おのれ以外の 栄えある天の末の神々のたれかが不死の神々の間で、王者の特権を獲ることがないようにと図って。というのも 彼は 大地と星ちりばえる天から聴いていたのだおのれの息子によって いつの日か 打ち倒される定めになっているのをヘシオドス 『神統記』 より ところが、ヘシオドスによれば、このクロノスにも実は、同じようにその父に仇をなした過去があったのだ。クロノスの父とは天を意味するウラノスであるが、ウラノスもまたおのれの子を憎み、光の当たらぬ大地の奥底に生まれた端から押し込め、隠していたのだった。それを怨んだ妻ガイアは夫に隠れてひそかに大きな鎌を研ぎ、子供らを集めてこう語りかける。わたしと、かの不埒な父から生まれた子供たちよ お前たちが私の言うことに従ってくれるならわたしたちはお前たちの父の非道な仕業に復讐してやることができるのです。それというのもあのひとが先に恥知らずな所業をたくらんだのですから それを聞いた子供らの中から、末子のクロノスが進み出て母の願いを聞き入れ、一役買うことになる。すなわち、クロノスは母親の寝所に隠れて、父ウラノスが来るのを待ちうけ、親父殿がことに及ぼうとするところでとび出して、その大事なところを母に渡された鎌でちょん切ってしまうのである。 つまり、ウラノスとクロノス、そしてクロノスとゼウスの物語は見事に相似形をなしており、おのが子を怖れた父ウラノスと同様にクロノスもまた子を恐れ、ウラノスが末子のクロノスによって倒されたように、彼もまたおのれの末子であるゼウスに倒されるという結末になる。 この話は一口で言うと 「因果はめぐる」 ということになるだろうが、おそらく時間は、ぐるぐると円環的にめぐるということを象徴した話なのだろう。実朝を暗殺した公暁は事件の黒幕という疑いもある北条に消され、大内氏を倒した陶晴賢は毛利に亡ぼされる。信長を討った光秀もまた山崎で秀吉に討たれる。 かのオイディプスもまた、「お前はおのれの子供によって亡き者にされる」 とのアポロンの神託を怖れた父によって捨てられるのだが、殺してくるよう命じられた家来の情けによって命は助けられ、めぐりめぐって別の王家で育てられることになる。 白雪姫もまた、「白雪姫はあなたより千倍も美しい」 との鏡の言葉に嫉妬した王妃(グリムの初版では継母ではなく実母ということだ)によって、森へと連れ出されるのだが、やはり同様に哀れに思った狩人により命を助けられ、小人らとともに森の中で暮らすことになる。 さて 「エディプス・コンプレックス」 理論で有名なフロイトは、『トーテムとタブー』 の中でこんなことを書いている。 ある日のこと、追放された兄弟たちが連合し、父親を打ち殺して食べてしまい、そこで父親群に終止符をうつのである。彼らは団結して、個々の人にとって不可能だったことをあえて行って、それを実現したのである。 (中略) たしかに暴力的な父は、兄弟集団のだれにも羨まれ、かつ恐れられた模範であった。そこで彼らは、それを食いつくす行為において、父との一体化を遂行して、おのおのが父の強さの一部を自分のものとしたのである。 人類の最初の祭りかもしれないトーテム饗宴とは、この重大な犯罪行為の反復であり、記念祭であろう。そしてこの行為とともに社会組織、道徳的制約、宗教など多くのものが始まったのである。 いうまでもなく、このようなフロイトの主張はとうてい 「歴史的事実」 としての確認などできるものではない。また人間の 「社会形成」 に関する理論としてみれば、一種の社会契約論と言えなくもないが、説明があまりに空想的で心理主義に偏向しているのも確かだろう。 たしかに古い神話や伝承には、しばしば 「怖ろしい父」 や 「怖ろしい母」 といった形象が登場してくる。神話の場合には、そのような形象はおそらく人間の上にのしかかる、様々な抵抗しがたい力が擬人化されたものなのだろう。とはいえ、そういう怖ろしい力が 「怖ろしい父」 といった姿で表されたということには、それなりの根拠というのもあるのかもしれない。 第二次大戦中のヒトラーによる 「絶滅政策」 を生き延びた人々は、パレスチナへの「帰還」によって、2,000年ぶりに自前の国家を建設した。しかし、それはすでにそこに住んでいた人々を暴力で追い払い、彼らから土地と家を奪うことによる 「建国」 でもあった。 「建国」 前には、パレスチナ全体の1割にも満たない土地しか所有していなかったユダヤ人入植者による、パレスチナ全域の制圧によって実現したイスラエル 「建国」 は、現実にはパレスチナ人に対する旧ユーゴの内戦と同様の 「民族浄化」 によるものだ。当時の記録を読めば、イスラエルの 「建国」 が、単なる自衛を超えた 「テロ」 の力を借りたものであることは疑いようがない。 彼らの 「テロ」 と、その後のパレスチナ人による 「テロ」 との違いがあるとすれば、彼らのテロは 「国家建設」 という目的を果たし、その結果 「建国」 のための 「英雄的行為」 として正当化され認知されているということでしかあるまい。 かつて東欧の狭い 「ゲットー」 の中に押し込められていた人々の末裔は、いままた高い壁でパレスチナ人の居住区を取り囲み、新たな 「ゲットー」 を建設しようとしている。ただし、これは 「因果はめぐる」 という話ではない。 わずか360 平方キロという一都市ほどの広さしかない土地を軍事的に制圧するのは、むろん赤子の手をひねるよりも簡単なことだろう。だが、自国の周りに、自らの手で敵意と憎悪の壁をうず高く積み重ねていくのは、最悪の愚策でしかあるまい。それは、ゴヤが描いたサトゥルヌスのように、自らの手で自らの未来を食い尽くすことでしかないだろう。