つかの間の船上で
真っ黒な空間の中、さざなみの音が聞こえる。 そのくせ、釣竿はぴくりとも動かない。甲板には、彼一人。 遠くジュノを離れ、浮かぶ機船はバストア海の上。洋上には小さな月だけが、ぽっかりと浮かんでいる。 船室へと続く木製の扉が、きしんだ音を立てて開いた。彼の視線はしかし、海面へと注がれたまま。「なんだ、ちっこいの。アンタも眠れねぇのかい」 中年男性の声。続いてゆっくりと、金属音の反響するかん高い足音と、隣に腰を下ろす粗野な音。「……あんな船室で眠れるほど、神経太くないんですよ」 面倒そうに、彼は口を開く。定期便の船室は、狭い上に簡素で、じめじめとしていたのを思い出す。 男はそれを聞いて、豪快に笑った。無粋な声が、静かな水面に反響する。「どこでも眠れるっつうのが、冒険者の条件ってもんじゃねえのかい」「あれなら野営のほうがいくらかましです」 にべもなく、言い放つ。海面に映る、二人の姿。男は空を見上げながら、また笑った。いつの間にか、海面の月は姿を消していた。「おもしれぇな、兄ちゃん。アンタ、どこ行く途中だい?」「別に。ただの釣りですよ」「その割にゃ……景気がよくねぇみたいだな」 彼の足元には、ぼろぼろのバケツが一つ。少しむっとして、彼は竿を揺らす。「ま、朝まではまだだいぶあるからな」 洋上のはるか先には、人工的な光が見えた。止まっているように見えて、ゆっくりと流れていく景色。それはまるで、雲のようだ。「今日は星が見えねえなあ」 その言葉につられて、見上げる。真っ黒な空。雲間から見えていた月も、その姿を隠している。しかしあの雲も、やがては晴れる。朝になれば、何もなかったように、青い空が広がるのだろう。「明日になれば、きっと見れますよ」「……そうだな。そうだといいなぁ」 しばらくして、また訪れる静寂。彼は目を閉じ、思考をめぐらせる。 偽りだと、誰かが言った。 冒険にも終わりはある。では冒険を形作っていたのはなんだったのか。 絆は脆く、言葉はいずれ霧散する。綺麗だと心躍らされた貝殻は、もうどこにも無い。好奇心はいつの間にか倦怠感へと姿を変え、結局は、壊れゆく欠片だけが、歩んできた道に散らばっていた。「……なあ、兄ちゃん」 再び思考が中断される。視界の隅にはもう、街の灯りは見えなかった。「冒険者ってのは、いいものかい?」「……」 竿を握る力が、少しだけ強くなった。表情を変えないように、努める。「繋がり続ける事ができれば、いいものなんじゃないでしょうか」「ほぉ」 全てはやがて断絶する。時間はいつの間にか過ぎ去っていく。戻りたいといくら願っても、それは、叶わない。「仲間だって、いつか別れるときが来るんです。悲しみを知れば、もう何も……」 出かけた言葉を、飲み込む。口にすれば、全てが終わりそうで怖かった。その相手がたとえ、こんな見知らぬ男でも。「いろいろ苦労してるんだな」 しみじみと、その男は言った。 ゆらゆらと、機船の立てる波が、二人の姿を撫でていく。その道程も、やがて泡となり、ただののっぺりとした海面に戻るだろう。そこを誰かが通ったなんて、思う人はいない。「船乗りってのはさ」 言葉を探すように、男はゆっくりと語る。「いつも見知らぬ誰かさんと共に同じ船に乗るのさ。若い頃は、船が港につけばいいんだって、そう思ってた。誰が乗ってようと構いやしない。機械みたいに同じ事を繰り返すだけさ」 冒険者だって似たようなものだと、彼は思った。誰と狩りに出かけても、必要なのは結果だ。そしてその結果の積み重ねの先には、今の彼がいた。「でもな」 男は続ける。「船ってのは、その誰かさん達の人生も、ちょっとだけ乗っけてたのさ」「詩的な言い回しですね」 おおよそその男には、似つかわしくないと、心の中で付け加える。「長いこと船に乗ってると、いろんな人生に出くわすんだ。まだ見ぬ大陸に心躍らせている奴。のんびりと、海の風を楽しんでいる奴。恋人とはしゃいでる奴。疲れたみたいに、ぼーっと海を眺めてる奴」「……」「船が港に着けば、そいつらとはお別れだ。それっきりもう出会わない奴もいる。でも、それが船乗りってもんだ。それ以上は、そいつらの人生に踏み込めねえ」 この男は何が言いたいのだろうと、訝しむ。説教なら、まっぴらご免だ。なんでこんな所で、こんな見知らぬおじさんに。 しかしそんな彼の胸中を知ってかしらずか、男は続ける。「でもな、そこで終わりってわけじゃない。少なからず触れ合った人生ってのは、ある日ひょっこりと顔を出すもんさ。それはマストをたたんでる時だったり、甲板を掃除してる時だったり、あるいは休暇で、部屋でのんびりとウィンダスティーを飲んでる時だったり。なんでもない事が、多いんだけどな」 ぼりぼりと、頭を掻く音が聞こえる。「頭わりぃから、よくわかんねぇんだけどよ。繋がってるってのは、そう言う事じゃないのかい?」「……」 そういう考え方も、あるのだろうか。誰かと共に、駆け抜けた冒険の日々。 その時の自分は、たしか笑っていたような気がする。 やがてゆっくりと、男が告げる。「この船が港についたらよ、俺は船を降りるんだ」「そう……ですか」 冷たい潮の香りを乗せた風が、吹き抜けていく。「田舎のお袋もいい年だからよ。潮時かなって、さ」 彼は竿を引き上げ、その男へと視線を移す。両手を後ろにつき、空を見上げている中年の男。「でもよ、明日の俺が想像できねぇんだ。実家にはたしか、甲板もマストもなかったはずだしな。何より、海がねえ」 彼は少し苦笑する。「この磯の香りも、いつか忘れちまうもんなのかい?」「……忘れないと、思いますよ。忘れても、いつかふと、思い出すことがあるはずです」 そして視線が合う。どちらからという事も無く、にやりと笑いあう。 それは偽りかもしれない。いつか壊れゆく欠片かもしれない。 日々はやがて風化する。今日は思い出へと変わり、どこかにしまい忘れることもある。 でも。 断絶することは、無いのかもしれない。 ゆっくりと、昇り始めた朝日が、短い船旅の終わりを告げている。 二人の男と、船室の幾つかの寝息を乗せて、船はやがて着港する。 だが、それで終わるわけではない。船は新たな人を乗せ、降りた人は、何かを目指して、歩き出す。 今日はどこへ行こうかな。 彼はそう呟くと、いつの間にか晴れ渡った空を見上げ、そして歩き出した。