短編小説『追われる者は』 1.石の街に響く声 3
ぼんやりと見つめながら、両手で持ったグラスを揺らすと、赤紫の液体が、小さな渦を描いた。 カウンター越しに見えるひげ面のマスターは、一心不乱にグラスを磨いている。 覚えている限りでは、それはずっと同じグラスだった。マスターは焦点の合ってないように同じ作業を繰り返す。要するに、彼は暇なのだ。 鉱山区の場末にある行きつけの酒場は、昼間ということを差し引いても客足はよくない。 西日しか差さない窓と、オイルの切れかかったランプのせいだろうか。「なんか、今日はどうもツイてないんですよ」 そうぼやきながら、グラスを傾ける。 四度の襲撃は、全て道を歩いている時のものだった。運良く撃退は出来たが、そう何度も斬りかかられてはたまらない。 そう思い、モグハウスから取り出したローブを頭からすっぽりかぶった。他種族の仲間達からは、ローブをかぶったタルタルは区別できないとよくからかわれるが、まさかそれが役に立つ日が来るとは皮肉なものだ。「僕には何も心当たりが無いんですよ! それなのにあのミスラときたら・・・・・・」「あー、分かる分かる。うちの母ちゃんもそうだった」 そのままの姿勢で、マスターは相槌を打つ。「でしょう? 全く理不尽だ」「そーだそーだ。分かるよ兄ちゃん」 いつものようにマスターに愚痴をこぼしながら、グレープジュースを一気に飲み干して、お代わりを注文する。 命を狙われる覚えはないし、あのミスラに見覚えも無い。 他種族の見分けは得意じゃないけど、すらりとした体つきだし、顔だって、あどけなさは残ってるけど可愛かった。一度見れば、忘れるわけは無い。 だからと言って、熱烈なアプローチにも程がある。「お待たせしました」 ――コト。 ぶつぶつとそんな事を言っていると、少女の声と共に目の前にグレープジュースのお代わりが来た。「お、ありがと。マスター、いつの間にバイトなんて雇ったの」「何いってんだい。うちがそんなに繁盛してねえのは知ってるだろ」 マスターが苦笑しながらそんな事をぼやく。手の中では相変わらずグラスが磨かれている。 え? じゃあ、これは。 恐る恐る、横に視線をずらす。白いエプロンと、その下に覗く紺の東方装束。 そのままの姿勢で、視線を上げる。セミロングの白い髪からはみ出た特徴的な大きな耳と、その下にある、笑顔。「追加のご注文はありますか?」「え、あー、いや、今はいいかな・・・・・・」「わかりました」 グラスを握っていた手をおそるおそる引っ込める。わきの下に冷や汗が流れるのが分かる。 奇妙な静寂のあと、ウエイトレスは回れ右をして背を向ける。 同時に、椅子から転げ落ちるように身を投げ出した。 ――ガシャアンッ! グラスの砕ける音。寸前まで僕がいた空間を、奇妙に細い剣が貫いていた。「チィッ!」 舌打ちをして、ミスラはこちらへ向き直る。もう一本の刀を後ろ手に抜くと、構えを取った。「な、なんでここが!?」「アタシらは鼻がいいんだよ」 床にしりもちをついたまま、後ずさる。両手を目の前でぶんぶんと振って、抗議する。「ちょ、ちょっと待って! 話し合おうよ!」「問答無用!」 一足の元に距離を縮めて、銀の刀が走る。慌てて身を投げ出し、テーブルの影へと隠れる。「マ、マスター! 助けて!」「・・・・・・痴話喧嘩は他所でやってくんないかねえ」 場違いなほど冷めた声。その視線は、相変わらず手元に注がれたまま。 この店が繁盛しない理由が分かった。「いい加減しつこいよっ! 僕が何したって言うのさ!」 テーブル越しに怒声を浴びせる。いや、悲鳴かもしれないが。 しかし、それは相手の殺気を膨れ上がらせただけだった。「よくも・・・・・・そんな台詞がっ!」 慌ててまた前方へと飛び込む。一瞬遅れて、真っ二つになるテーブル。見事なまでに二等分された木片に何故か感心しながら、ミスラの少女を睨む。「アンタはアタシに殺されるべきなのよ」「そう・・・・・・ならっ」 頭にきた。この理不尽な少女にも、ついでにマスターにも。 流石に、理由も分からず殺されてやるつもりは無い。「やる気になった?」「ちょっと、ね」 言葉と共に、笑みを返す。「そうでなくっちゃ。アタシも、逃げるだけのヤツを斬るのって調子が出なかったのよ」「僕はモンスター以外じゃ調子が出ないんだけどね」「構わないわ。アンタは悪者らしく、足掻いてくれさえすれば」 そう言って、少女は不敵な笑みを浮かべる。 それもそのはずだ。こちらの戦況は、あまりよくない。 元来、魔道士は一対一の戦いには向いていないのだ。一撃必殺の魔法は、詠唱に時間がかかりすぎる。これまで撃退できたのは運もあったけれど、相手が本気でなかったのが大きい。 ならば、あとは戦略と地の利に頼るしかない。 状況を確認すると、カウンターの中へ飛び込む。手当たり次第にボトルやら、グラスやら、その辺にあるものを片っ端から投げつける。「……何のつもり?」 彼女はこともなげにそれを切り払い、その足元に、破片が散らばっていく。「おいおい……」 マスターが非難の声を上げる。しかし、気にしている場合ではない。棚にあった最後の酒瓶を投げつける。だが、それも一閃した刀によって、真っ二つにされる。「……気は済んだ?」 余裕の表情を浮かべ、彼女はこちらへ近づいてくる。 好都合だ。 既に詠唱を開始していた。 店内に魔術の回路を張り巡らせるよう、イメージする。あとはその設計図通りに、魔力を流し込んでやればいい。 視界に白銀の光が浮かぶ。自分を中心に、魔力が渦巻いていることを確信する。「ファイガ……か。でもね、そんな低級魔法でやられるアタシじゃ……」「普通のエリアならそうだろうけどね」 口元が緩む。こちらの意図を察したのか、少女の表情が一瞬にして強張った。 密閉された店内。そして、散乱したアルコールの瓶の破片。「ちょっ――!?」 抗議の声を聞き終えることも無く、完成した魔法を、その名と共に、解き放つ。「――炎よ!」 視界を埋め尽くす、赤。そして。 爆音と共に、繁盛していない酒場が、潰れた。