ある意味、母の別の壁かな?
ネガティブ日記なので、読みたくない方はスルーしてくださいねこの日、家族でお花見に行きました。その内容は別日記で書きたいと思います。我が家には小3の発達障がい児くんが一匹。普通に毛が生えたような奴が一匹いますお花見は特に別に・・・なんですが。まあ~昔より適応できているというか?親も手があまりかからなくなったのでお出かけが楽にはなっています。その分、やはり、行動面より心の成長というか?そういうのが気になる母長男ぼんちゃんを、やっぱり母にはわからんという感情が芽生えつつあって・・・ここは、母が乗り越えなくてはいけない壁なんだろうなと感じています。長男ぼんちゃんは、学校では、目に見えるような特別な支援を受けてはいません。まあ~気になる点は、学校、通級、親で模索しながら・・・といった感じです。学校で暴れることもなく、もちろん、家で暴れることもなく、お友達ともそこそこに遊び、勉強面は図画工作と音楽を除くと優等生です苦手という図画工作も音楽も普通レベル・・・学校としては、「ぼんくんを障がいといったら、学年で何十人が障がいになってしまうのでしょうか」と・・・いいんです。学校は、そのレベルのものだから・・・母は頑張って、ぼんちゃんのよりどころである通級は小4までは確保しようと思っていますけどね私は、小学校に上がった時点で、学校に口出すことはしませんでした。口を出しているのは、通級に通わせろ!ということくらいです。そこには、ぼんちゃんにとって一番信頼できる他人がいるから・・・なんです人を信頼できずに、世の中渡っていけませんからね。もちろん、誰を信頼して誰を疑うのか?というのは、何時か教えなくてはいけないのですが・・・ここは、定型の大人だって難しいところです母的にアスペルガーという障がいの重さを痛感しています人の気持ちに自分の気持ちをかたむけられないでも、ぼんちゃんは人の気持ちに気づきます。人の気持ちに自分の気持ちをかたむけられます。でも、それはマニアルに乗っ取って・・・ですよく、発達障がいの子は、一度経験したことはこなすことができるけど、経験したことのないことが対処できない!と言います。ぼんちゃんはまさにそうなんです。すべて、マニアルどおりに人の気持ちに寄り添い、ちゃんとその場にあった声かけをします。それができるんだからと言われたらそうかもしれません。このマニアルどおり・・・結構、残酷な時があります。人として、本当にどうなの?と思う時があるんです例をあげると・・・連日、東日本大震災の映像が出てきます。その中で震災孤児の話がありました。ぼんちゃんから出てきた言葉は、「大丈夫だよ。他の人がちゃんと育ててくれるよ。特別養護施設だってあるし、税金で育ててくれるよ・・・」と。ハイ、確かにそうです。そうだけど、その言葉、母の神経を逆なでします「前を向いて、一歩一歩だよ。」と・・・ハイ、確かにそれもあってます。あっているけど、我が子だから余計にイライラしちゃう小3の子が、普通は言わない言葉です。そう、ここがマニアルチックなんです。確かに、何事も失敗したら次に向けて挑戦し続ける・・・失敗したら、別の作戦を考えて行動する・・・というふうには育てました。でも、イライラしてしまうんです。命が絡むことなので、余計なんでしょうねこの日、県内のダム周辺の桜並木の下で、お花見をしました。その時、誰かの落し物だろう写真?(数枚綴りのアルバム)を見つけましたここで、次男はるちゃん(5歳0ヶ月)とパパさんがこんな会話をしていました。「おとうさん、ここにしゃしんがあるよ。」はる「本当だ。誰か落としたのかな?」パパ「つなみでながされてきちゃったのかな?」はる「どうだろうね~」パパ「めだつところにおいてあげようね。さがしにきたときにわかるようにね。」はる「そうっか・・・」パパ「そうだよ。だいじなものだから、きっとさがしにくるよ。」はる東日本大震災の映像の中で、同じような光景を見たのだと思います。津波や地震の映像を子どもに見せない!という家庭もあったと思います。でも、私は、この映像社会の中で、あえて情報を遮断する気はありません。映像の中から、子ども達が学ぶことだってあるから・・・次男はるちゃんには、震災の映像は強烈だったようです。壊れた車を見ると「じしんでこわれちゃったのかな?つなみでこわれちゃったのかな」と聞きます。誰かが亡くなった!という話を聞くと「おぼれちゃったのかな?みずいっぱいのんでくるしかったのかな?かなしいね。くやしいね」と・・・さて、パパさんと次男はるちゃんの会話に入ってくるぼんちゃん。「はるはアホだな。ここはダムだから津波はこないよ。そんなこともわからへんのか」って・・・「落し物は、警察に届けるか?管理事務所に届けるんだ。」ハイ、ぼんちゃん、あってます。ここはダム湖なので津波はこないし、落し物はダムの管理事務所に持っていくってのはいいと思います。でも、これもすべてマニアルなんです道端で落し物を見つけたら交番へ・・・と。いいんです。それであってるから・・・PDDの子やアスペルガーの子・・・言葉を普通に話せるから、余計に人間として本質的にどうなのよ?と感じてしまう時があります発達障がいの子の気持ちに、私の気持ちが寄り添えないんです。こういう子なんだから、そう思って育てたらいい!と言われても、maoという人間が、それを許せないこれが他人だったら「こういう子にはこういう対応を」と勉強通りにできるんですけどね。そこには、やはり責任感がないからかな我が子のような愛情がないからかなこの壁を超えられないと、私は本当のぼんちゃんの母にはなれないんだろうな?と感じています。母の壁です発達障がいについて勉強すればするほど、母親としてではなく教育者や指導者になってしまう。それに気が付いたから勉強はやめましたとはいっても、県内で一番有名な先生がお年でして・・・その人の講義が数年後には受けられない可能性も出てきているので、今年無理やり受けたいとは思っているんですけどね。一般的な勉強はこれで終わりかな我が子をこれ以上、マニアルどおりの人間にはしたくない自分が頭でっかちになればなるほど、フットワークは鈍くなってしまいますものね発達障がい児にだって、心はある。その心を育てたい!と・・・難しいんだろうなその心が個性ありありだもん我が家は比較対象がいるので余計に、親が苦しむパターンだと言われています。まあ~子どもって、同じように育てても同じようには育ちませんけどねこの曲を聞きながら、日記を書いてましたこういう映像をみて何かを感じる子に育ってほしいな?と思う母です「かぞえうた」