★罪には違いないが‥
先週の土曜日は、久々にケイシーによる聖書講座だった。前回が平成29年の6月18日だったから、丸々1年振りとなる。何故1年も聖書講座が開かれなかったかというと、ケイシーの輪廻転生の講座を間に挟んだからだ。映画が始まっていたので、そちらの講座に切り替えたというところである。私は間に病気をしてしまったので、輪廻転生の講座は休みがちになってしまった。‥残念だが仕方がない。1年前の前回は、ルカによる福音書までだったので、今回はヨハネによる福音書からだった。この中でとても印象的だったのが第8章の姦通した女性のくだりである。その頃はモーセの律法で「姦通したものは石で打ち殺せ」というものだった。不倫という罪を犯したものは死刑だと決まっていたわけである。しかも最初に見つけた人間が石を投げて、他の民衆がそれに続けて石を投げ続けるというものだった。さて、イエスはどういう判断をするのか?モーセの律法を守るのか守らないのかと、イエスを試しているのだ。これのかわし方が素晴らしい‥流石イエスである。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言ったのである。最初に不倫を見つけた者でなく、罪をいままで一度も犯したことのない者が、石を投げる権利があるというのである。まず、年齢の高い者が去っていく。長い年月生きていれば、罪の数が多いからだ。結局全員が去っていってしまった。イエスは残った姦通した女に、「みんな去っていってしまった。誰もあなたを罪に問わなかった。」そして続けて言った。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」これは日本でいう大岡裁き?一休さん的発想?モーセの律法に違反することなく、上手くその場を治めたのである。罪を憎んで人を憎まず‥という裁き方である。その時代のその民族だったのなら、今の日本人はどれだけの人が死刑にならなければならないだろうか?昔の常識は今の常識でなく非常識になることもある。イエスはその問題点を、その時代風に上手く転化したのである。私たちも自分の魂としっかり向き合って、常識非常識でなく、魂の答えを導き出したいものである。