オーバーアチーブ
NPOとか相互支援とかそういう場所にいると、何かを人にお願いする事が多い。それは当たり前な話しだけど、どうしても、「無理のない範囲で」「子どもに負担のない範囲で」「できる範囲で」とか口に出したりしているのだけど、それは嘘だと気がついた。というか、気が付いていたのに、「そう扱う」ことにしていたのだ。だけど、それでは続かない、ということに改めて気がついたのです。こないだ「すこしだけ、じゃなくて、すこしづつ。」とブログに書いたけれど、これは事実認識の視点とか物事の捉え方という意味だけじゃなくて、最終的な数字に出ないような端数をどう引き受けるのか、その結果によって積み上げられるものだと思うのです。・・・きっと、分かりにくい表現だね ^^ごめんなさい、いま心の中でしっくりくる表現探し中!しばしお待ちを。::たとえば、、、「ナニカ」を引き受けようとしたときに、先に沢山のリスクを計算して、予防線をはって、その上で「この程度なら日常に影響がでないから大丈夫かな」と思える"合格ライン"を設定したひとと、いろいろリスクとか不安もあるけれど、「この程度なら日常がちょっと変わるくらいで大丈夫かな」と思える"チャレンジライン"を設定したひと。ふたりとも、同じコトを引き受け、物理的には同じ分量の「ナニカ」をやっていくのですが、それが未来に置いてどんな意味をもたらすのかを考えると、ものすごく大きな違いがあると思うんです。8年間、子育て相互支援とかNPOとかの現場にいて、いろんな人と出会ってきたけれど、続けられている人というのは、そういった「チャレンジ」を選んだ人たち、だと思う。チャレンジとは、何か新規の案件に取り組むことだけじゃなくて、日常の中にも数限りなくあるんだと思う。同じ分量の「ナニカ」が、「今」の暮らしの中の「すこしだけ」(消費)で終わってしまうのか、「未来」につながる「すこしづつ」(投資)になっていくのか。小さな自由と引き換えに、小さな責任を引き受けるその時に、どんなモチベーションが持てるのか。その「ナニカ」は、四捨五入など丸めた数字で捉えると同じ「1」かもしれないけど、実際は「0.8」と「1.2」くらいの違いがある。その「0.2」を積み上げていくことができる人は、ある日なんらかのブレークスルーを起こすことができる力がつくんじゃないかな、と思う。こつこつと続けていくことができた人は、持って生まれた能力や環境に恵まれたという事実があるかもしれないけど、それを下支えしているのは、ひとりひとりの「小さなオーバーアチーブ」なのだと思う。周りに沢山「すごいなあ」と尊敬する人たちがいるのが私の幸せな所ですが、よく知らないで「あの人は才能があるから」「能力があるから」と言ってしまうことはしたくない。もちろんみなさん才能豊かで能力もあるのですが、それは「けた外れの才能」ではないことのほうがおおい。(ま、そんなモンスターもいますけどね ^^ )小さな「0.2」という数字を積み上げても「こんなのどうせちっぽけな端数だよ。切り捨てられてしまう"働き損"だ」と、自分の糧にしないで評価してしまってはもったいない。切り捨てられてしまった0.2ではなく、未来に向けた120%なのだから。わたしたちが言うべき言葉は、「無理のない範囲でいいからね」という「0.8でも1の評定をあげるよ」というささやきではなく、もっと違う言葉であるべきだ、と改めて思うのでした。「ボランティアが根付かない」とか「なかなかこちらの想いを分かってもらえない」ということは、自分たちからのささやきによって生み出されているものでもあるのだと、反省します。では、どんな言葉や態度であるべきか。感謝の気持ちはもちろんだけど、ただやみくもに「ありがとう」ということではないのだと思う。敬意をもって、その人たちひとりひとりに伝えられる言葉が必要だなあ。それを、仲間たちと一緒にじっくり考えていきたいな、と思う。☆この辺りの事は、内田樹さんの「街場の教育論」という本から沢山の気づきをもらっております。【送料無料】街場の教育論価格:1,680円(税込、送料別)