遥か遠き未来で…
「舞桜」慶東国の首都尭天に聳える尭天山から青海へと流れる河の堤の上には柳木が植えられている。春の訪れとともに新緑に萌えいづる枝の隣には薄紅色の花を枝いっぱいにつけた木が植えられている。「きれい…」まだ十にもならぬ少女が呟いた。「あれは何というお花なの?」少女は傍らに立つ連れに訊ねた。年齢ゆえに少しかがめた腰を伸ばすように顔をあげ、眩しそうに眼を細めて花を見上げていた白髪白髯の老人は少女の声に初めてどこにいるのかを思い出したかのように、ゆっくりと息を吐きながら応えた。「ああ、阿陽は初めてだったか… あれは桜花じゃ」「桜花?」「そう、前の前の王様がその前の王様のことを偲んで天帝に願って叶えられた木をこうして堤に植えていったという。柳の緑と映えるようにと交互に並んでいる…」老人は遠い眼をしている。その横で少女は首を傾げている。「王様を偲んで?」「そう、千載を全うされた赤子様のことは知ってるだろう?」「赤子様!陽子知ってる」「そうじゃったな。阿陽もまた赤子様からその名を頂いた… 碧霞玄君玉葉様に次いでこの国では女の子の名前に多い… 登極当時は女王だからと皆顔を顰めたものだが…」「え?赤子様が王様になって喜ばなかったの?」「ああ、王様がいないよりいた方が嬉しいが、それまで女王様が続いて、しかもあまりよい王様じゃなかったのじゃ。女王様だとまた酷いことになるのではと落胆したのじゃよ。実際、かなり大きな謀叛もあったそうじゃ。しかし、その後は皆が幸せになる政治に尽力なされ、かつてないほどの長い治世を全うされた…」遠い眼をした老人の気持ちを察することなど無理な少女はしきりに首を捻っている。その気配に老人は気付いて苦笑する。「ああ、桜花の話じゃったな… 赤子様はどこのお生まれか知っておるかな?」「えっと、赤子様は蝕に流されて蓬莱でお生まれになり、台輔が虚海を超えてお迎えに行ったのでしょう?」「そうじゃ。赤子様は蓬莱でお生まれになり、蓬莱でお育ちになったのじゃ。だから、時折あちらのことを想っていたとも言われておるのじゃ。じゃが、赤子様はそんな気振りも見せないようになされていたそうじゃ。赤子様の晩年のころ、とある海客が仙となって金波宮にのぼり、蓬莱ではよく見られる、最も馴染みの深い花がないことを不思議に思い、周囲の官吏たちに訊ねたことが赤子様の耳に入り、秘かにこの海客を呼び寄せたそうじゃ」「蓬莱でも咲いてるの?」「そうじゃ。その当時は梅、桃、杏、梨などの果樹の花はあったものの、桜花はこの慶にはなかったのじゃ。赤子様は登極の際に援けていただいた、同じ蓬莱育ちの延王君が蓬莱でされたことを慮り、敢えて桜花を天帝にお望みにならなかったそうじゃ。それに桜花を見て懐かしさのあまり涙したり、蓬莱に帰りたいなどと口走ったりしたくないとおうせになったと言われているのじゃ。その噂が赤子様の御隠れになった後に広がり、赤子様を尊敬なさっていた前の前の王様が天帝にお願いになったそうじゃ…」「ふぅ~ん…」少女には少し話が難しかったのか、途中から花を見るのに夢中になり、老人の話は耳に入っていなかった。老人もまた少女に向かってと言うよりも独り繰り言を言っているようであった。薄紅色の花弁の中心は鮮やかな緋色であり、かつて憧れの眼で見上げた娘の髪の色と同じであった。長く金波宮で王を補佐し、やがて辞官してこの辺りの里の里長になり、それからどれほどの時が流れただろう。自分を救ってくれら娘と同じ名前で同じ緋色の髪と翡翠のような瞳をもつ少女と並んで、女王が最後まで封印していた花を見る。その散る姿が儚すぎて王の責務を投げ出したくなるかも知れないと呟いていたことを老人は知っている。風に弄られ、花弁が舞い散る姿を見せてあげたかった。「…陽子」「え?何?」「あ、いやなんでもない」老人は苦笑した。老人が思い出を共有するものは誰ひとりとしていなかった。