こういう理由があったの?
「別離」 エドモンから手綱を受け取ったアリサは『惑わしの森』の中を一人で馬車を走らせた。『惑わしの森』は多くのエルフが住むといわれ、その中に不用意に踏み込むと道を失い、二度と出てこられなくなるという噂すらある。が、アリサの御す馬車はエドモンが呪を施したのか、アリサは手綱を持ったままでまっすぐ進めばよかった。それはまるで道が目の前で開かれていくようで、実際馬車が通った後は道などあったのかというようにさっと塞がれてしまう。アリサは振り向きたい気持ちを抑えてじっとしているうちに馬の方が歩みを止めた。訝しげに顔をあげて見てみると森の木々が切れて開けた場所に一軒の家が建っていた。ごく普通のように見えながらなぜか印象の定まらない、何処か落ち着かせない雰囲気の家の前に背の高い男が立っていた。金髪碧眼で20代のように見える。ミシェル・ド・フェルナンデは齢200歳になろうかという噂だっただけにアリサは首を傾げてしまう。御者台でじっとしていると男の方から声をかけてきた。「そなたがアリサか?」「え?あ、はい」「私宛の書状を持っているだろう?」「あ、はい。あの、ミシェル・ド・フェルナンデさまで?」「そうだ。…この外見がおかしいか?」「あ、いえ、その…」「もう百年以上もこんな感じだ。年をとるのを忘れてしまったらしい。それにさま、などと呼ばないでいい。ミシェルと呼んでくれればいい」「…よろしいのですか?」「構わない。貴族であるのは辞めてしまった。今は一介の魔法使いに過ぎない。…書状を」「あ、はい。これを」 アリサは慌ててエドモンから預かったド・フェルナンデ宛の封書を手渡した。ド・フェルナンデはそれを数回頷きながら読み終えると左手に持ち、口の中でなにやら呟くとポッと火がついて燃え上がり、灰も残さずに消えてしまった。「大体のことはわかった。そなたをセシルに連れて行くようにとのことだ。とりあえず中に入りなさい」「あ、でも、エドモンが…」「あれはこの中へは入ってこれない。セフィソロスの力は強すぎる。エルフたちが近づくことでさえ嫌がることをよくわかっているようだ」「そ、そんな… では、エドモンは?」「森の外でかなり凄惨なことをしたようだ。エルフたちが相当に騒いでいる。まぁ、仇討ちとはいえあれだけのことをしては…」「…仇討ち?」「そなた宛の書状を読めばわかることだが、そなたの伯父と兄はもはやこの世のものではない。伯父は正々堂々の闘いの中に斃れ、兄は卑怯な謀略の中に斃れた。その兄を斃したものがこの外まで来ていたようだ。そなたの兄が苦しんだのと同じ程度の痛みを与えたようだ」「マルコやミカエルが?そんな…」「…さぁ、とりあえず中で休みなさい。気持ちが落ち着いたらこれからのことを話し合おう」 ド・フェルナンデは大粒の涙を落とすアリサを少し不器用に慰めながら家の中へと誘った。 エドモンはセフィソロスの力ゆえに知りたくもないことさえも知ってしまう。過去も未来も自分の知った通りになることが辛かった。今回の逃避行でマルコとミカエルを別ルートにしようとしたのはマルコがミカエルを庇って死んでしまうことやマルコの死で冷静さを失ったミカエルがまともに闘えない状況に斃れてしまうことがわかっていたからであり、少しでも運命に逆らおうとしたのだが、細かいところでは差異があっても結果に違いはなかった。事前に知った通りに二人が死んだことをその瞬間に察してしまうのは辛いものがあった。このことをアリサに告げる勇気はなく、あと延ばしにしているうちに『惑わしの森』についてしまったのだ。ここから先はアリサとともに進むことはできない。これも定められた道だった。セフィソロスの力は自分からアリサの身篭った子どもへと受け継がれ、その力が発現した時自分も消え去る。このような力は発現しない方が幸せな生き方ができるのではないか、とエドモンは考えていた。そのための方策も自然と知識として知っていた。が、そのためにはこの肉体が邪魔なのである。己の肉体を捨て、精神を他人の中に潜ませ、常にアリサの孕んだ子どもの傍にいることで、その子どもと一つにならない限りセフィソロスの力の発現が抑えられるようだ。無論セフィソロスの方は一つになろうとするだろう。したがって、アリサの孕んだ子どもが女の子であるならエドモンの精神は男の子の中にしか潜めない。何れ一つになるだろう近しい少年でなければならない。エドモンはアリサにセシルに向かうように書状にしたためた。その前にエドモンはセシルに向かい、アリサの産む娘と近しくなる少年の中に入らねばならない。これもまたセフィソロスの力の命じるところであるとともに、エドモンの願うところでもあった。もはやアリサとは結ばれないこともエドモンはわかっていながらエドモンは別れを選んだ。エドモンにできることはこれしかなかったのだ。 アリサはド・フェルナンデの家で暖かな寝台を与えられ、横になっていた。エドモンが自分を置いていってしまうなんて信じられなかった。マルコもミカエルも既になく、自分ひとりになってしまったことなど認めたくはなかった。けれども事実は事実だ。アリサは一晩ボンヤリと過ごした。ほとんど寝もやらずに朝を迎え、ボンヤリとしたままのアリサのもとにド・フェルナンデは一杯のスープを持ってきた。固辞するアリサにお腹の子どものためだからとド・フェルナンデは半ば強引に押し付けていった。魔法使いの作ったスープである。ひと匙毎に少しずつ心がほぐれていくのがわかった。哀しみが消えるわけではないが、哀しみに囚われ何も考えられない状況からは離れ始めた。無理やり気持ちをそうさせるのではなく、自分の力でそうできるようにホンの少し背中を押す程度のものである。そうしなければ心が壊れてしまうからだろうが、無理強いしない暖かさに感謝の涙がこぼれた。このスープを飲み干す頃にはアリサはエドモンからの書状を読む気になっていた。アリサは封書をあけた。それには次のようなことが書いてあった。『アリサ、これを読む頃には私は君の前にいないだろう。これもまたセフィソロスの力に振り回された結果なんだ。まず、マルコやミカエルのことについてだ。ミシェル・ド・フェルナンデが(多分)言ったようにマルコは闘いの最中にミカエルを庇おうとして斃れた。毒を使うような連中だから卑怯といえば卑怯だが、正々堂々と闘っている最中だったから仕方ない気もする。ミカエルの方はバルクランドからパルシェルに抜ける『森の道』で半月近くも不眠不休の状況に追い込まれ、まともに闘えない状況で斃された。斃したのはかつてマルコに恥をかかされたことを恨みに思っている奴で、『惑わしの森』で仇を討つことになっている。できる限り苦しませるつもりだ。そんなことをしてもミカエルが還ってくる訳でもない虚しい行為だけど、それくらいのことはしたいんだ。で、これが終われば私は先に旅立たないといけなくなる。行き先はセシルのランチャオという場所だ。アリサもそこに向かってもらいたい。そこでリー・ジンキというものを頼れ。きっとどうにかなる。そこまではミシェル・ド・フェルナンデが送ってくれる筈だ。そのために私は『惑わしの森』の中に入らないという誓約を交わしたのだ。彼は約束を守る。安心してもらいたい。私は私のままでアリサに会うことはないだろう。アリサの中にいる娘と結ばれる可能性の高い少年の中に潜むことになる。この二人が結ばれる時にセフィソロスの力が娘に発現する。できるだけ発現しないようするための方策なんだ。こんな力を持つことが幸せに繋がるとは思えない。だから私なりに頑張るつもりだ。もう二度と会えないことは辛いけど、これから生まれる娘のためだから、私も耐える。アリサもどうか堪えてくれ。こうなることは逆らえない運命だったのかもしれない。あるいはこれから逆らえるものなのかもしれない。すべては娘次第かもしれない。アリサ、愛している』 アリサはエドモンの書状を抱きしめて泣いた。その日は何もする気が起きなかったが、ド・フェルナンデは旅立ちの準備を進めていた。とはいえアリサをせかすことはなく、アリサがセシルに向かう気になったら出立するつもりだった。アリサが心を決めたのは5日後で、その翌日には旅立っていった。ド・フェルナンデに付き添われ、タラビア商人の隊商に加わってランチャオまでたどり着いた時にはアリサは産み月に入っていた。なれない長旅のせいで疲弊していたものの、ランチャオで隊商から離れ、リー・ジンキという男のもとに転がり込んだ。このリー・ジンキは元はセシルの兵士だったのがこの地に逃れてきたようで、身重とはいえ、美しいアリサが気に入り、世話を見ることになった。ド・フェルナンデは子どもが生まれるまで、ということで留まり、やがて、アリサは女の子を産んだ。けれども産後の肥立ちが悪く、最初の七日を見届けるように逝ってしまった。リー・ジンキは男手一つではどうしようもなく、シャオ・マーにこの娘・リー・リンメイを預けることにし、その養育費を稼ぎために頑張ったが、リンメイが物心つく前にランチャオを襲った盗賊と闘って斃れた。ド・フェルナンデはしばらくランチャオに留まって薬草などの知識をシャオ・マーに授けていたが、やがてモルトに戻っていった。リー・ジンキの死後はシャオ・マーがリンメイを引き取って、息子のファンゾや主筋のヤン・タオと一緒に育てることにした。エドモンはリンメイの近くにいる少年の中に潜んでいたが、そのことを知っているのはド・フェルナンデだけだった。