人数は増えたけどすぐ消える?(^^ゞ
「朋輩」府第の仕事は夜明けとともに始まるが、終わりの時刻は部署によってまちまちである。朝議の準備や根回しに忙しい場合には徹夜になることもあるが、大概は午前中で仕事の終わる部署が多い。もちろんこれは繁忙期でない場合で、繁忙期に合わせて官吏の数は定められているものの、会試や殿試の頃の礼部は連日の徹夜で死人が出ないのが不思議な有様だったりするし、除目の前後の吏部は人事の根回し、調整、発令と辞令の交付、赴任や引き継ぎに関する様々な手続きや人事への「苦情処理」などで大騒ぎとなる。吏部の場合、春と秋の除目を比べると春の方が大掛かりで、秋の方は春の除目の調整的な人事が多く、各種の手続きも春ほどは多くないので、まだ忙し過ぎではないが、さすがに新人の世話をするほどの余裕はない。科挙に及第し、吏部に仮配属になった者は諸先輩方の邪魔にならないようにお手伝いするくらいしか仕事がない。お手伝いしながらあれこれ仕事を学ぶということだが、およそ除目後の半月からひと月ほどはイライラの高じている諸先輩方の気に障らないよう気をつけつつ、じっと見つめているのでさえ御法度だったりする。二十三人ほどの仮配属になった者たちは「いるだけ邪魔」と邪険にされるので、昼には早々に帰宅することになる。志雲も大きな身体を小さくして目立たぬように仕事ぶりを観察していたが、やはりに昼には「帰れ」と放り出される。やむなく昼で府第を出て、とぼとぼと歩いていると後ろから呼び止められた。「大、じゃない、楊殿、昼でも一緒にしないか」振り返ると同じ吏部に仮配属された韓厳霞と董袁命だった。二人とも李塾の出身で、韓厳霞が志雲の六つ上で二十五歳、董袁命が十上で二十九歳である。志雲は笑みを浮かべて応える。「韓殿、もう府第の外ですから大で構いませんよ。昼はどこで食べますか?」「そう言えばそうだな。府第の外で公務でなければ普通に呼びあえばいい。ならば私のことは元基でいいわけだ。なぁ、不迷?」「公務以外といよりも他人の眼のあるなしだろう?我らが官吏だと知っている人の前では相応に振舞わないと。まぁ、まだ官吏だと言う風格もないから問題はなかろうがな、元基。で、昼は昨日見つけた所だろう?」「そうそう、寮の近くに飯屋ができたんだ。昨日行ったらケッコウ美味くて安い。女将もケッコウ…」「元基殿はそちらが目的で?」「大、殿はいいよ。年は違っても同期じゃないか。不迷はどうだ?殿がつかないといけないか?」「それはないな。むしろ大に殿と呼ばれるほどかという気の方が強い。私的な時は殿抜きで。公的な時は楊殿、韓殿だな」「そう、他人行儀でいけないよな。まぁ、親しいと言うほどの付き合いでもないが」韓厳霞が苦笑する。李塾からは百名近く科挙に及第しているが、吏部に仮配属になったのはこの三人だけだ。他の二十人はほとんど初対面でまだよそよそしい。ついつい李塾で知った顔とつるみたくなると言うものだ。同じ李塾と言っても志雲は武挙の道場の方に入り浸っており、講義で一緒になることはほとんどなかったが、知らぬ者などいない存在であり、韓厳霞の方から声をかけたのだ。韓厳霞と董袁命は寮の房室が隣同士で、受験前からの知り合いだった。李塾の寮は科挙及第後も春の除目で正式に配属が決まるまで居残りが許されていた。及第の上位二三十名は開封に残る可能性が高いので、こういう者たちは早々に寮を出て家を求めたりするのだが、それ以下で開封以外に配属されそうな者はどこに行くかも不明であり、半年で二度の引っ越しというのも手間である。それに郷試が終わったばかりで入寮者もまだ多くないし、入寮者に直近の及第者からの情報を与えることにもなるので、強引に追い出すこともしない。韓厳霞も董袁命も五十位台の及第であり、地方に行く可能性も低くないので寮に残っていたが、志雲の場合は麗鈴との結婚や新居の準備などで忙しい、という名目で寮に残っている。もちろんこれは科挙三元の志雲をエサに入寮者を増やそうという狙いもあった。「あ、ここだ」韓厳霞が指差したのはこざっぱりとした飯屋である。志雲は二人に分からないように少し眉を顰めた。飯屋と言えばどこも同じ、というわけでもない。饅頭が主な店もあれば、麺が主力の店もある。魚を使うのは湖の近くで、開封辺りでは肉が多くなる。肉も羊、牛、豚、鶏と得意なものも違うだろうし、味付けも各地から人が流れ込む開封だけに多種多様である。それゆえに志雲がこの店に既視感を持ったのはあまりよいことではない。そう、済州の梨緋や至達の飯屋に雰囲気が似ているのだ。むろんそんなことを表に出したりはしないが、単なる偶然を願わずにはいられなかった。が、世の中はそううまくできていない。「いらっしゃいませ」「今日は三人だ。美味しいところを頼むよ」「うちは何でも美味しいけどね。まぁ、好みの問題があるけど。昨夜のお二人はいいとして、新しい人は?」「…どこの味付けでも大丈夫ですよ。最悪、塩だけでも」「…面白くない冗談を言う人だね。もしかしてこの人が?」「そう、昨夜話した三元の大だよ」「ふぅん」店の中に入った三人を迎えたのはまさしく梨緋だった。志雲は初めて会う振りをし、梨緋の方も同じである。もっとも梨緋の方は昨夜の内に韓厳霞から志雲のことを聞いており、心の準備もできていた。口の悪い女将という役柄だろう。口が悪くても憎めない、どこかカラッとした口ぶりだ。「身の丈九尺の三元というから厳めしいのかと思ったけどまだ幼いと言うか… あら御免なさいよ、まだ髭も伸ばしていないみたいなもんで、つい」「…事実は事実だな。何せまだ十九だ。これで老けていたら可哀想だろう?」「十九!ならしょうがないわね。…まぁ、年の話はしたくないけど、貫禄だけはもうちょっと先のようね。…じゃあ、昨夜と同じでいいの?昼だから軽く?」「私と不迷は軽くだな。大は?」「私も軽くにします。でも、お二人の倍くらいでしょうか?」「…まだ育ち盛りなのか?まぁ、その身体じゃ腹も減るだろうが」「ええ、この後道場にでもと思っていますので」「…たまには塾の方にも顔を出したらどうなんだ?三元の爪の垢を煎じて飲みたい奴がゴマンといそうだぞ」「私の成績は趙老師の指導の賜物です。趙老師の指導通りに勉学に励めばいくらでも上位に食い込めますよ」「…それを私たちの前で言うか?頑張ったのに五十二位だぞ」「それは李塾の中での争いでしょう?お二人の上に李塾以外の者はいないでしょう?」「まぁ、それはそうだが」「同じ李塾で切磋琢磨する、それが及第の早道に違いないが、大と我々とでは違い過ぎる。そういった意味では参考にならない、などと趙老師は言っていたが」「なるほど、だから大は塾に顔を出さないのか」「…そういうわけでもありませんよ。道場の方にかなりの遣い手が入ったと聞きましてね。ここ数日はそれが楽しみで」「…いっそ武挙でも三元だったんじゃないか?」韓厳霞が口を尖らせる。もちろん冗談である。「それにしても吏部は我々以外はケッコウ下位の及第者ばかりのようだな?」「皆、秀才よりも我慢強いもの、といった印象だな」「そこに三元というのも変と言えば変だが?」「…いろいろと事情がありまして」「…聞かない方がよさそうだ。けど、私たち二人というのは開封じゃない気がするな。故郷に錦を飾れればいいが」「…うぅん、それはどうでしょう?お二人は青州と代州ですよね?故郷よりも南に眼を向けてはどうですか?あちらの方がきな臭くなさそうですし」「…何かあるのか?」「…今すぐじゃありませんがね。北の方は騒がしくなるんじゃないかって気がするんですよ。気のせいならその方がいいんですが」「…何かあると真っ先に役人の首が飛ぶからな。打診されたら南の方を希望しておくか。な、不迷」「…そうだな、地方に行って三年で戻れる保証もないし… 少しでも生き延びられそうな方に行くべきだろうな」「いろいろなところを見聞するのも面白いですよ。この国は広いんだって感じますから」志雲はわざと明るく言ったが、二人の気勢が上がる筈もない。それでも梨緋が料理を持ってくると途端に元気になる。二人の目的は料理よりも梨緋のようであった。