コロッセオ、パラティーノの丘
その他の写真はこちらTAROさんの記事で731部隊と封印された原爆報告書が繋がりました。[http://blogs.yahoo.co.jp/ta1tataro/6097695.html731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書]まんべくんの戦争発言が批判されましたけど。{{{ どうみても、日本の侵略戦争が全てのはじまりです。日本の犠牲者310万人、日本がアジア諸国に与えた被害者数、2000万人」}}}(“まんべくん”の書き込み) これに対して、自治体のキャラクターが何を言っているんだなどといった批判が相次ぎ、ツイッターは炎上、収拾がつかなくなりました。[http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20110817-00000017-jnn-soci TBSニュース]イタリア庭園めぐりが全然更新できません。まだ半分ぐらいでしょうか。{{{ コモ湖のメルツィ邸}}} で撮影した日本庭園のような一枚はゲスブに載せています。ちょっと、ローマに戻ります。皆様ご存知のコロッセオ,今回は中に入る時間はありません。初めてツアーでコロッセオに行ったときは時は 猫ちゃんたちも見かけました。[http://blogs.yahoo.co.jp/shishi5235/30036089.html海外庭園の動物たち][[attached(2,center)]]まだオープン前でお馬さんも朝ごはん、ローマの将軍のような扮装した人と記念撮影していた観光客を見ました。彼女たち、あとで笑いながら走っていたのでモデル料を払わずに逃げた?コロッセオと言えば{{{ 剣闘士奴隷スパルタクスの乱}}} を思い出します。{{{土井正興氏のスパルタクスの蜂起」}}}は私の大事な本です。自由を求めて、女や子供をつれて故郷に帰ろうと闘ったスパルタクス。{{{映画「スパルタカス」}}}も何回も観てしまいました。初めてイタリアに行ったときは{{{ フォロ・ロマーノ}}} には行けませんでした。そのはずです、広大で登ったり降りたり、この日は上天気で私が{{{ パラティーノの丘ファルネーゼ庭園}}} を経てフォロロマーノにつく頃はカンカン照りになり日本風の傘を買う人も現れました。その傘が、また子供が日舞で使うような物なので( ´艸`)ヨーロッパの昔の上流の女性はパラソル持っていたのに、なぜか今は皆さん無防備。冬が長く太陽が貴重なのはわかりますが。私は日傘がないと耐えられません。[[attached(3,center)]]パラティーノの丘への入り口のすぐ近くの階段、この階段で学生さんたちが記念撮影していました。以前は無料だったようです。渡りやすき地図もなく、ただ歩いていきました。地下鉄でホテルからコロッセオまではすぐでした。{{{コンスタンティヌス帝の凱旋門を越えてパラティーノの丘へ}}} 、と思ったら行けども行けども入り口はない!まだオープン前で見逃して、バラが咲いているのを観ながら街路樹の下をどんどん行ってしまいました。引き返すのも大変、ぐるっと回れば元のコロッセオと言うのは甘い考えで、とにかく広大なのですね。警察でトイレを借りて、ここにもビデが一緒にあったのでびっくり。私が引き返しているときに同様な間違いをしているカップルがいました、聞かれたので違いますよと言ってもそのまま行ってしまいました![[attached(4,center)]]{{{パラティーノの丘は古代ローマ共和政期の高級住宅地。帝政期は皇帝たちが宮殿を建造した土地。ファルネーゼ庭園やアウグストゥスの宮殿などが残っています}}} [[attached(5,center)]][[attached(6,center)]]かつての馬場。[[attached(16,center)]][[attached(7,center)]][[attached(8)]] バラ・ピースでしょうか。[[attached(9,center)]][[attached(10,center)]]小さな博物館[[attached(11,center)]][[attached(12,center)]][[attached(19,center)]][[attached(18,center)]][[attached(13,center)]][[attached(14,center)]]6枚目の画像と同じ場所、競技場です。多くの遺跡があるのですがわかりやすい地図がありません。コロッセオ、パラティーノの丘 で検索すると出てくるとと思います。[[attached(15,center)]][[attached(17,center)]]ファルネーゼ庭園は次回です。フォロ・ロマーノは紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。Wikiより