三ツ星クラシック-2-チャイコフスキー「交響曲第6番」
19世紀ロシアの作曲家チャイコフスキーの最後の作品、「悲愴」の名で知られる交響曲第6番は、クラシック音楽だけが表現できるものを表しているという点でクラシック音楽の極北ともいえる曲である。ザ・クラシック。この曲以外のクラシック音楽が地球から消滅しても人類の文化はさほど影響を受けないが、もしこの曲が消滅したら、それは人類の文化そのものが消滅したに等しいと思う。あらゆる文学、映画、美術、舞踊、そうしたものすべてを束にしても、チャイコフスキーのこの1曲ほど重要ではない。この曲を初めて聴いたのは叔父からもらったレコードで、中学生くらいだったと思う。それから30年以上、この曲は苦手だった。何せ暗い。暗いだけでなく、展開が唐突すぎる。特に第一楽章はひどい。最弱音のゆっくりした音楽から最強音のアグレッシブな音楽が始まる部分(第161小節)の唐突さといったらどうだ。甘美な音楽から絶望への飛躍は作為的すぎるように感じた。表現もあまりに大げさで、なぜ音楽でこんなに感情を振り乱さなければならないのだろうと思い、聴くたびうんざりさせられたものだった。第3楽章のマーチだけは例外で、勇壮な音楽にはスカッとしたが、続くフィナーレがなぜまた暗く悲痛なのかも理解できなかった。各楽章が、マーラーの交響曲以上にバラバラなのだ。悲痛で絶望的な両端楽章の間に楽しげなワルツと勇壮なマーチが挟まった構成。何のこっちゃ。わけわからん。4つの楽章の有機的なつながりが見いだせない。しかしこの曲を知って40年になろうかというある日、FMから流れてきた大野和士指揮ザグレブ・フィルハーモニーによるこの曲の演奏を聴いた瞬間、この曲のテーマがわかった。ぼんやりと無心に聴いていたのがよかったのかもしれない。チャイコフスキーがこの曲で言いたかったことがわかったのである。チャイコフスキーは日本語でこう言った。この曲は人生そのものを描いた。人生は死で終わる。死への長いようで短い道のり。それが人生なのだ。人生には幸福な、甘美な時間もあれば悲痛な時間もある。そして不幸はいつも唐突だ。第一楽章161小節の唐突な爆発はこのことを表している。第一楽章だけでももうチャイコフスキーは言うべきことをすべて言っている。第277小節からの金管楽器とそれ以外のかけ合いを聴いてみよう。これは子を亡くした母、親を亡くした子、世界の中心で最愛の人を喪った人間の悲痛な叫びだ。林光「原爆小景」のカタストロフよりおそろしい。しかし自分が死んだわけではないからこの楽章はほのかに明るい音楽で終わる。悲嘆には暮れるが、それでも明日はある。親が死んでも食休み。最後の15小節はそういう意味だ。それではなぜ第2楽章は「ワルツ」なのか。それも3拍子ではなく5拍子のワルツ。「くるみ割り人形」の中の「花のワルツ」であんなに優雅でゴージャスな音楽を書いたチャイコフスキーが、ここではどこか不安定な「5拍子のワルツ」を書いた意味は何か。これは、言ってみれば「浦島太郎のワルツ」なのだ。楽しい時間はあっという間に過ぎる。気がついたときは老人になっている。玉手箱をあけると若者は老人になる。どんな楽しい時間も「死」と「老い」を止めることはできない。死はひたひたとしのびよってくる。音程が上に上がっていく音楽は、基本的に楽しさや希望を、下がっていく音型は悲しさや絶望を表す。この楽章は典型で、ワルツの基本的なメロディは上行音型で作られている。しかし、終結部の152小節以降は、弦楽器の上行音型のメロディに対して管楽器が下降音型を奏でる。これは、第一楽章の第277小節からの下降音型と同じであり、チャイコフスキーは意識的にここにこの音型を持ってきている。これを音楽学者は「嘆息の動機」と呼んだりしているが、わたしに言わせればこれは「死神の動機」だ。どんな楽しい舞踏会も、人生の浪費でしかない。死神はいつもそこにいて人間をつかまえようとしている。それでは勇壮な第3楽章のマーチが意味するものは何か。この楽章を、長い人生の中にある「勝利と歓喜の瞬間」と解釈する人は多い。というか、ほとんどすべての指揮者はこの楽章を快適なテンポで演奏する。わたしはこの解釈には反対だ。この楽章は人生の輝かしい勝利の瞬間など描いていない。この「マーチ」は死神の行進なのだ。どんな強力な軍隊も死神にはかなわない。向かうところ敵なしだ。すべての生けるものを滅ぼす最高神、それが死神であり、それはこのように最初は諧謔的なスケルツォで姿をあらわすが、その邪悪でどうしようもなく強大で巨大な力ですべてを圧倒する。それが第3楽章の意味である。あるいは、人生にときおり訪れる成功と歓喜を描いたとしよう。しかしそうだとすると、この楽章はそうした成功と歓喜さえあざけるように笑う、死神の哄笑にほかならない。どんな成功も歓喜も死神の前では無力でしかない。言いかえれば、人生とはエピソードでしかないのだ。第283小節からのクライマックスをたいていの指揮者はテンポを上げて煽る。しかしスコアには何も書いていない。音楽の生理としては、たしかにここでテンポを上げた方がいいと感じる。にも関わらずチャイコフスキーはそういう指示をしていない。そうすると、むしろテンポが遅くなったように感じるのである。つまりテンポを変えずに演奏すると、テンポが遅くなったように、つまり音楽が重たくなったように感じるのがこの部分である。そして、そういうふうに演奏している指揮者はほとんどいない。そのほとんど唯一の例外的な演奏がレナード・バーンスタインの晩年の録音である(写真)。運命の下降動機で始まる第4楽章フィナーレは涙の音楽である。言いかえれば死そのものだ。親しい人が死んだとき、人間の心は軋むような音を立てる。悲しみなどという軽い言葉では言い表せない深い感情にとらわれる。それをそのまま音楽に写すと、このフィナーレになるだろう。死は悲しみである以前に、恐怖であり呪いであり絶望である。そのすべてがこの楽章では描かれる。救いはなく、死の前になすすべはない。第137小節で鳴らされる鐘の音は、まさにこの冷厳な事実を象徴する。すべての人に対する死の宣告がこの小さな音の意味なのだ。そして音楽は深い闇の底に沈んでいく。最後の音が静かに消えるとき、この曲を聴いた人は、ほとんど死を経験したとさえいえる。セックスのエクスタシーは小さな自己死といえるものだが、この曲のカタストロフとエクスタシーは死そのものであり慰めはなく安らぎもない。残るのはただの無である。こういう解釈はわたし個人のものにすぎない。たいていの指揮者はわたしの解釈に同意しないだろう。同意しないから、わたしが理想とするテンポよりかなり速いテンポで演奏し、第3楽章などは猛烈にアクセルを踏む。しかし、こうしたわたしの解釈、つまりこの曲を貫くのが死そのものであるという解釈によって演奏されている唯一の演奏が、1986年、晩年のバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮したライブ録音である。通常の指揮者なら45分、速い指揮者だと40分ほどで演奏するこの曲を、バーンスタインは58分をかけている。常識からは考えられない遅いテンポであり、表現はおそろしく濃密で入念だ。特にフィナーレの、ひとつひとつの音の意味を確認し刻印していくような演奏は異様であり圧巻だ。極限のメロドラマとでもいうべき哀切な演奏が続いていく。許光俊は「世界最高のクラシック」で、この演奏についてこう書いている。「・・・この最初の数分間を聴いただけで、人間はとんでもない音楽を考えつき、実際にとんでもない音としてこの世に鳴らしてしまったのだなという感慨を抱かずにはおれない」動物は人間とちがって死を知らない。バーンスタイン=ニューヨーク・フィルによる1986年のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を知らない人間は、死のほんとうの意味を知らない人間である。動物ではないが、人間未満ということだ。この曲のこの演奏を知らないクラシック・ファンは、クラシック音楽についてほとんど何も知らないに等しいということでもあるが、わたしもつい数年前まではそうだった。バーンスタイン以外の演奏では、リッカルド・ムーティとフィラデルフィア管弦楽団によるものが比較的チャイコフスキーの真意を伝えている。ただし第3楽章終結部では少しテンポが速くなってしまっている。