伊庭求馬無頼剣(57)
゜「左様なことなれば、世を捨てたそれがしの耳にも聞こえてござる」 楽翁がゆったりと目前の湯呑みの蓋をとり、茶碗を両手で包み込むように茶を啜った。「ご隠居にご心痛をおかけ申し、汗顔のいたりにございます。近きうちに事の真相は判明いたしましょうな」 讃岐守がぬけぬけと弁明した。「左様か、しかし公儀隠密を束ねる大目付の酒井内蔵助や、斉藤岩見等が、消息を絶っておると聞き及んでおりますが、それは真の事にござるか?」 楽翁の視線が讃岐守に注がれ、讃岐守の眼光が鋭くなった。「大目付の酒井内蔵助は拙者の密命で動いてござる、消息不明なぞの流言蜚語は許せんことにござる。ですが斉藤岩見の件は申される通り、我等も心を痛めております」「隠居の戯言とお聞き流し下され、されど奥医師が居らぬとは些か心配じゃ。近々にはそれがしからご推挙いたす所存にござる」「奥医師の裁量は、老中首座の拙者の権限内にござる。いかに楽翁様とて承服出来かねますな」 讃岐守が野太い声で反論した。「お怒りは最もな事じゃ。だが清祥院様のたっての願いを無視は出来ません」 楽翁が温顔で言葉を添いた。「なんと清祥院様が」 讃岐守が息を飲み込んだ。「左様、それがしも彼の方の願いには逆らえません」 温和な口調の楽翁と讃岐守の視線が火花を散らした。「この件は、ご隠居にお任せいたそう。誰を推挙なされます」「突然の事でそれがしも頭が痛い、併し奥医師なしでは心許ない。近々にはご返答いたしましょう」 閣僚等に安堵の色が浮かんだ。「然らば、それがしは下城いたします。お邪魔をいたした」 楽翁が軽く頭を下げ退出していった。「何時までも出しゃばられては、政治事の乱れる因じゃ」 讃岐守が扇子で太腿を、ぴしゃりと叩き、「拙者も下城いたす」 と足音も荒々しく部屋から去った。「流石は楽翁様じゃ、面白い見世物を見物させて頂いた」 牧野正紀が破顔した。讃岐守の強引さを日頃から苦々しく思っていたのだ。 老職達の哄笑が御用部屋から沸き起こった。 讃岐守は長廊下を足早に歩んでいたが、ふっと足を止めた。茶坊主が不審そうに見守っている。讃岐守は再び歩みだし大奥へと向い、お千代の方に拝謁を願いでた。直ぐに華麗な女達を従い、お千代の方が美しい姿を見せた。「いかが為されました」 心なしか心配そうに讃岐守を見つめている。「急にお方様のご尊顔を拝したく罷り越しました。相変わらずご壮健の呈を拝し、恭悦至極に存じあげます」 お千代の方は讃岐守の幅広い背中に視線を当て、「皆の者、父上様と二人にしてたもれ」 と腰元を下がらせた。「父上、なんぞ心配事でもございましたか」 お千代の方の眸子の奥に欲情と憂いが宿っている。「楽翁めが清祥院様を動かし、奥医師の推挙をいたすとほざきおった」「なんと清祥院様を?」 「左様、迂闊であった」 讃岐守がお千代の方を凝視した。その眼差しは親子関係を越えた男女関係そのものであった。 「奥医師推挙は止められませぬか」「止めてみせる、楽翁めに一泡ふかせねば気が治まらぬ」 讃岐守が獰猛な顔つきで嘯き、「一度、宿下がりをなされ、水入らずの話もござればの」 素早く細い肩を抱き寄せ耳元に、「そなたが抱きたい」 と囁いた。「上様にお願いし、近いうちに参ります」 お千代の方がすがるような眼差しを見せている。 (その一) 夜な夜な求馬は痩身を晒し、旗本屋敷から大名屋敷を徘徊するようになった。これは讃岐守一派への挑発行為であった。 讃岐守配下の手練者の眼にとまることを期待した行動である。あえて己の身を虎穴に入れ、一人一殺の秘剣の技で讃岐守の配下を血祭りとして、讃岐守の力を削ぐ、これが狙いであった。 陽が落ちると求馬は身繕いを済ませ、小便長屋の猪の吉の部屋から虚無感を漂わせ闇に消えて行く。「旦那、今夜もお出かけですかえ、少しは休まれたらいかがです」「こちらから仕掛けねば、勝てぬ闘いじゃ」 心配する猪の吉に薄い笑いを見せ、「糸路は無事か」と訊ねた。伊庭求馬無頼剣(1)へ