伊庭求馬無頼剣(107)
その男は伊庭求馬であった。堂々と江戸城内を闊歩し讃岐守が動くのを待っていたのだ。求馬は讃岐守の心中を見破っていた、お千代親子を手にかけ、自分も死ぬ。幼児に罪はないが、せめて実父の手で命を絶たれるほうが、どんなにか幸せであろうかと考えいたのだ。これが求馬の哀れみであった。 一歩一歩、命を刻み讃岐守は二人が軟禁されている部屋に近づいた。部屋の前には警護の士が控えていた。 「襖を開けえ」「成りませぬ」 「老中首座としての命令じゃ」 警護の士は躊躇したが、老中首座には逆らえず部屋を開けた。そこにはお千代と膝に抱かれたあどけない豊松の二人が居た。「父上」 「お千代、遅くなって済まぬ。全てが水の泡となった」 二人の視線が絡み合った。 「親子三人で冥途に旅立とうかの」 お千代のやつれた顔から涙がとめどなく伝え落ちている。 警護の士が仰天した。 「讃岐守さま、ご乱心か」 どっと数人が部屋の前を塞いだ。 「ここは殿中にございますぞ」「お主等は退くのじゃ、上様のお許しは得て参った」 讃岐守は警護の士を掻き分け、部屋に踏み込んだ。警護の士はただ見守るだけであった。 「お千代覚悟は良いの」「はい」 豊松を抱きしめたお千代が眼を瞑った。 「渇っ」凄まじい掛声が轟き讃岐守の脇差がきらめいた。お千代と豊松が血飛沫をあげて倒れ伏した。人々が慌てふためいた。「お主等には面倒をかける」 巨眼を光らせ警護の士に労いの言葉をかけ、どかっと二人の骸の傍らに腰を据えて、肩衣をはねあげ紋服の前をおし広げた。 「何を成されます」 「わしはこの場で切腹いたす」 警護の士が讃岐守の言葉に声を飲み込んだ。幕閣筆頭の讃岐守の所作が理解出来ないでいた。 「そこまでじゃ」 突然、乾いた声がした。「伊庭求馬か」 讃岐守は声の主が誰か分かっていた。紋服に肩衣、袴姿の求馬がうっそりと佇み、冷ややかな眼差で讃岐守を見据えていた。「わしをどうする」 求馬が眉宇を細め醒めた言葉を浴びせた。「畜生にはそれらしい死に様がある、武士らしく命を絶たれては我が妻の復讐が成り立たぬ」 「貴様っ」 讃岐守が求馬の真意を見抜き吠えた。「それほどまでに恥をかかせる積もりか」 讃岐守がゆらりと立ち上がった。 求馬の双眸が強まり、腰間の脇差が讃岐守の躯を奔り抜けた。讃岐守の紋服が両断され、真新しい陰腹を隠した晒しが顕わとなり血が滲んでいる。「普段なら、見事な切腹と誉めるがの」 讃岐守が言葉を失っている。「貴様には似つかわしくない陰腹の痕じゃが、それに相応しい躊躇(ためら)い傷を刻む」求馬の眼が細まった。 「止めえ」 讃岐守が大声で制した。 声に誘われたように求馬の脇差が風斬り音を発し、刃が正確に讃岐守の晒しを裂いた。 「無念じゃ」 血を吐くような讃岐守の声が漏れた。 彼の腹部には誰が見ても、躊躇い傷と映る傷跡が三ヶ所に刻み込まれた。「武士の恥、臆病者の刻印じゃ。貴様は末代まで卑怯未練者と成り下がった」 讃岐守の顔が朱色となり、脇差を己の首筋へと当てた。瞬間、求馬の一颯が讃岐守の脇差をなぎ払った。讃岐守が襖に寄りかかり巨眼を剥いた。ここまで必死に堪えてきた気力が萎えたのだ、その様子を冷ややかに眺めた求馬は、振り向くこともなく痩身を人ごみに紛れさせた。 かっと剥かれた讃岐守の巨眼から血涙が滴り、求馬の消えた方角を無念の形相で見つめていたが、徐々に長廊下に崩れ落ちた。一代の梟雄の最後であった。この事件の評定が江戸城で開かれた。楽翁が裁定を下したという。「讃岐守の所業は幕府にとり許せぬ暴挙にござる。この発端は己の権力を私くするもの、このようなことは二度と起こってはならぬ。更に躊躇い傷が三ヶ所もあるとは、士道不覚悟、よって堀井家はお家断絶に処する。またこの悪業を世に広く知らしめる為に、見せしめとして首は獄門に処すなり」 求馬はこの処置を知ることもなく江戸から姿を消した。猪の吉や嘉納主水が必死で捜し廻ったが、ようとして求馬は消息を絶ったままてあった。 ただ風の便りで、伊豆の地で白布で包んだ小箱を胸に抱え、海を見つめる痩身の浪人が佇んでいたという、噂が猪の吉の許にもたらされた。「旦那、伊豆の聖徳寺ですな、あっしも直ぐに駆けつけやすぜ」 彼は真っ青に澄んだ青空に向かって叫んだ。 了伊庭求馬無頼剣(1)へ