「改訂 上杉景勝」
「改訂 上杉景勝」 (1) (回顧) 上杉謙信の居城でしられた春日山城は高田平野の北部、関川岸の標高一八〇メ-トルの丘陵地にあった。 城郭の規模は広大で山頂には南北三六メ―トル、東西二四メ―トルの本丸が聳え、天守閣を中心として家臣の武家屋敷、千貫門、黒金門が配置されていた。いわゆる春日山全体を城郭とし、東西一キロ、南北一.三キロに曲輪を並べた全国でも稀な規模の山城である。 周囲の尾根には砦が築かれ、そこからは高田平野、日本海が一望できる堅固な城塞であった。 謙信は天正六年三月一五日を関東出陣の日とさだめ、上杉軍団の武将たち八十一名の動員名簿の作成を終えていた。 城の周囲には各武将たちの旗指物が風に靡き、兵士らの声や軍馬の嘶き(いななき)、甲冑のすれあう音が潮騒のようにこだましている。 精強で鳴る越後勢三万余が春日山城を埋めつくしていたのだ。 まさに壮観、剽悍でなる越後軍団の威容である。 謙信はそんななかで毘沙門堂にこもり、心を無にすべく祈りをささげていた。 護摩(ごま)の煙のこもる堂には、毘沙門天の像が憤怒(ふんど)の形相で彼を睨み据えている。 謙信は兄の晴景(はるかげ)から政権を奪い、春日山城を本拠とした頃から、城内に毘沙門堂を建造し、無心の境地に至るまで堂にこもるようになった。 毘沙門天とは須弥山(しゅみせん)の中腹北方に住み、夜叉羅刹(やしゃらせつ)を率い北方世界を守護し、財宝を守る神と言われている。 甲冑に身をつつみ憤怒の形相の武者姿で、片手に宝塔(ほうとう)をささげ片手に鉾(ほこ)を持っている。 謙信は北斗の将たらんと決意し毘沙門天をあがめてきた。 それ故に常に陣頭に立ち、無死無欲で領土欲を捨てこれまで過ごしてきた。 それは全て天下静謐を思う一念と悪業を憎む気象の顕れであった。 言うなれば義を尊ぶ武将の気概を天下に示す証でもあった。 併し、謙信は苛立ちの中に身を置いていた。四十九歳という年齢を迎えながら、心の平衡を失っていたのだ。 彼は過去の忌(い)むべき思いに、心を苛(さいな)まれていたのだ。 続くついに書き始めましたが、前回の内容や筋など綿密に読み今のわたしの考えを書き加え物語を進めたいと思います。勝手ながら毎日の更新は出来ないと思いますので、ご容赦のほど。