誰よりも先を見据えた武将。
「織田信長を考える」(二十四) 信長の当面の敵は石山本願寺であるが、本願寺の軍事力を担う雑賀衆を彼は標的とし、翌年の天正五年の二月十三日に京を発ち、紀州の紀ノ川河口に向かった。 雑賀衆とは紀伊の国、雑賀を中心とする本願寺門徒の集団であった。 彼等は雑賀五組からなり、鉄砲や水軍をもった石山本願寺の重要な軍事力を構成していた。信長の出陣は太田源太夫の率いる雑賀三組と、根来寺の杉坊が信長に味方をするということで出陣したのだ。 彼等は鉄砲集団として名を馳せていた。特に雑賀五組とは、雑賀荘、十ケ郷、宮郷、中郷、三上荘の五つの地域集団であったが、十ケ郷の鈴木孫一は強烈に信長に対抗した。彼は別名、雑賀孫一として有名であった。 織田軍は河口の湿地帯に阻まれ苦戦したが、翌三月には雑賀荘、十ケ荘の二組が信長に降伏した。 信長は同月の十五日に孫一等、七名を赦免し、和泉、佐野に佐久間信盛を置いて帰陣した。こうして石山本願寺の抵抗勢力を徐々に攻略していた。 この頃から信長は家臣の中から次ぎ次ぎと離反者を出している。 これは信長の生まれ持った気象のなせることかも知れない。 主従関係で信長は打算的な側面が顕著であった。信長は家臣を含め人間関係というものが、信頼と温情の上に成り立つという考えが希薄であった。 そのせいか織田家の軍律は、峻烈を極めていた。将兵とも信長の怒りを恐れ、軍紀は厳しく、つねに将兵は信長の顔色を窺がっていた。 その軍律も信長の気象で、度々、場当たり的な処罰を行っている。 織田家にあっては、そうした事が当たり前であった。信長は神の存在にちかく,信長も当然にそのように振舞っていたのだ。 信長は自分に勝る者はいないという、異常までの自己過信を抱いていた。 過去の例をみても分るように、不可能を可能としてきた自信の表れである。 ブレーンを用いないないのも、そうした過去の成功の所為かもしれない。 更につめるて見れば、他人を信用しない男であった。 それは父の信秀の病死により、跡目相続争いで味わった肉親への不審感も尾を引いていたのかも知れない。 家臣達は己の利益追求の道具、もしくはコマとしか見ていなかったのだ。 はじめは浅井家の旧臣、磯野丹波守が逃亡したのだ。 彼は信長にかなり信用を得ていたが、一夜にして居城を捨て出奔した。「ご折檻なされ、逐電つかまつり候」こうした書置きを残しての逃亡劇であった。 こうした時期の十月に、松永久秀が背いたのだ、久秀は将軍義輝を殺した大逆人であったが、信長は彼の才能を惜しんで家臣に取り立てた。 しかし四年前の天正元年に武田信玄の上洛時に、一度、信長に背いている。 だが信長は久秀の才略非凡を惜しみ、敢えて咎めなかった。 彼の持つ能力は天下布武を目的とする信長には、兵器や軍勢などよりも数倍も勝る武器であった。信長は久秀より多聞城を召し上げ、信貴城を与え優遇した。 昨年の本願寺攻めが再開されると、佐久間信盛に属し天王寺砦の城番をつとめていた。しかし、八月に突然として砦を引き払い、本願寺と内応して信貴城に籠城したのだ。この松永久秀の謀反の報せは信長を驚かせた。 信長は久秀を手許に引きとめようとして、松井有閑を久秀の許に差し向けた。「思うところを存分に申せば叶えてやる」と帰参を促している。 こうした譲歩にも係わらず、松永久秀の反抗態勢は本格的であった。 彼は石山本願寺と上杉謙信、毛利家とで信長を挟撃する態勢を整えていた。 これに対する信長の報復は凄まじいものであった。 久秀が人質として出しておいた二人の子供を、情け容赦なく処刑したのだ。 ここにも信長の残虐性を見る思いがする。武器が無用となれば捨て去るまで、信長はそう考えたに違いない。十月一日、織田勢の先鋒隊が片岡城を陥落させ、三日には、総大将として信忠が着陣して信貴城を包囲した。 猛攻撃をうけた久秀は敗戦を自覚し、信長が所望していた名物の平蜘蛛茶壷を打ち砕き、天守閣に火を放ち城とともに果てた。 信長という武将は革命児であると同時に、己の信用を失墜させた者には容赦なく厳罰をもって臨み、残虐非道な報復をする男であった。 それは一種の狂気ともいえる振る舞いを平気でやっている。 だがここで信長の心理状態もみておかねばなるまい。それは上杉謙信の不気味な動きがあったのだ。 信長はようやく石山本願寺を孤立に追い詰めたのだが、閏七月八日に、上杉謙信は能登攻略の軍勢を越中の魚津城から出陣させていた。 この動きは松永久秀と石山本願寺の策謀と映っていた。 それ故に、松永久秀の手腕が必要であった。 上杉勢は九月十三日に能登の七尾城を包囲し、十五日には念願の攻略を終えて十七日には加賀に入っていた。信長の恐れは上杉勢の動向にあった。 既に信貴城には松永久秀が籠城している。 九月二十五日に信長の恐れていた敗戦の報せがあった。 七尾城の陥落を知らない、織田勢三万余が柴田勝家に率いられ北上し、加賀の手取川で謙信の指揮で完膚なく破れ去っていたのだ。 これにはさしもの信長も恐怖した、勝利の勢いで上杉勢が安土に押し寄せたら織田勢は壊滅するかも、この恐れが久秀へ向けられたのだ。 幸いにして上杉謙信は手取川の手前で軍勢を留め、そのまま帰国していった。間一髪の差で信長は難を逃れたのだ。 続く