騒乱江戸湊
「騒乱江戸湊(54) 激痛に耐え梅吉は闇に隠れ観音堂まで逃れ、石塔に身をもたせ肩で息を吐いた。背中の傷跡から血が足元に広がっている。 しかし、今夜は十分な収穫を獲た。暫く石塔にもたれ呼吸を整え、小便長屋に向おうとした瞬間、翳から男が飛び出し深々と梅吉の脇腹を匕首でえぐった。「おめえは帳場の男か?」 「逃しはしねえ」 相手が匕首をひねり激痛が全身をはしった。梅吉が渾身の力をこめ相手の胸を足蹴とした、男が地面に転がった。 梅吉の得意の琉球空手をまとも受けたのだ、肋骨が折れた筈である。 そのまま梅吉は夢中で逃げた。浅草境内を抜け、出血で朦朧となりながら小便長屋に辿り着いたのだ。「おいらの用は済みましたぜ、相手は凄腕の浪人です」「確りしねえな」「女将の顔は拝めなかったが、帳場の男には気をつけて下せえよ」 再び血を吐いた梅吉が眼を閉じた。「死んでなんねえぞ」 猪の吉が躰を抱え励ました。「お頭の役にたって本望だ、闇公方は江戸に潜んでおりやす。万八亭の女将を探って下せえ」 梅吉の顔に死相が現れている。「お頭、手を握っておくんなせえ。寒くてしようがありやせんや」 その言葉が梅吉の最後となった。「おめえの仇はきっとおいらがとってやる」 梅吉の亡骸を抱え夜空を仰いだ、すっ―と流れ星が横切っていった。「成仏してくんな」 猪の吉が息の絶えた梅吉に手をあわせた。 (闇公方を追え) 翌日の八つ半(午後三時)頃、猪の吉が長屋を飛び出した。 昨夜は人足稼業の上田屋の八助に、梅吉の遺骸を丁重に葬るように頼み、寝床に就くのが遅かったのだ。 相変わらず日本橋界隈は人々で賑わっている。江戸から上方に向かう旅人が多く見られる、彼等は辻売りの店で簡単な食事をとり日本橋を渡って行く。「横に寝かせて枕をさせて、指で楽しむ、琴の糸」 猪の吉が声を張り上げている。彼は粋な縞模様の袷の裾を端折って軽快な足取りで雑踏を掻き分け、横道へと入った。 彼は昨夜の梅吉の遺言を求馬に伝えにゆく途中であった。「あたしゃ春雨、ぬしゃ野の花よ、濡れるたびごと、色を増す」「旦那、猪さんですよ、馬鹿にご機嫌のよぅですよ」 お蘭がいち早く猪の吉の声に気づいて求馬に告げている。「お蘭、何かあったようじゃ。あれは空威張りじゃ」「それじゃあ、お酒の用意でもしましようか」「ご免なすって」 玄関から猪の吉の声がする。「猪さん、旦那がお待ちかねよ、奥に入っておくれな」 お蘭が顔を見せ声をかけた。「相変わらず色っぽいねえ、お言葉に甘えて入らせて頂きやすよ」 求馬はあいも変わらず、黒羽二重の着流し姿で大川を眺めている。「旦那、座らせて頂きやす」 「飲みながら聴こうか」 猪の吉は無言で煙草入れを腰からぬき紫煙を燻らしている。「猪さん、今日はご機嫌だね」 お蘭が二人の前に手際よく膳部を並べ終わり、傍らに座った。「猪の吉、独酌で参ろう」「へい、遠慮なく頂きやす」 暫く二人は無言で黙々と飲んだ。春の陽を浴びた大川の川面が白く輝き、心地よい風が吹き込んでいた。遠くに弁財船の停泊するさまが見える。「猪さん、蛍烏賊の塩辛だよ」「春だねえ師匠、おいらは春の旬を味わっているのに、梅吉の野郎は三途の川を渡りやがった」 猪の吉が湿った声を発した。「梅吉さんと言えば、あんたの昔の子分ですよね」 お蘭が素早く猪の吉の悲しみを察し、彼の杯を満たしている。「猪の吉、聴こうか」 求馬が杯を膳に乗せ訊ね、猪の吉が昨夜の梅吉の件を語った。「猪の吉、良くぞ捜ってくれたの」「あっしではありゃせんよ、梅吉が命懸けで捜ったネタです」騒乱江戸湊(1)へ