伊庭求馬活殺剣
「影の刺客」(27) 一方、山部美濃守の組屋敷では、火付盗賊方の猛者が厳重に身形を整え、茂助等の帰りを待ちながら闘志を燃やしていた。 ようやく曲者の隠れ家を発見したのだ。 茂助等が戻り、間違いなく曲者が隠れ潜んでいると報告してきた。 一行は用意した猪牙船に分乗し、坂下門から繰り出した。 九十九間の長さを誇る両国橋を潜り竪川に乗り入れた。 先頭の猪牙船には天野監物と茂助が乗り込み、本所相生町の北詰から、六間堀へと船を乗り入れた。一方、お頭の河野権一郎は迂回して弥勒寺近辺に接岸し、両側から包囲する態勢で古寺を囲んだ。「茂助、間違いはなかろうな」「先刻、調べたばかりてぜすぜ、寺には女をいれ十名ほど隠れ潜んでおるはずにございやす」 茂助が自信たっぷりに答え、天野監物が采配を振った。 それを合図に火付盗賊改方が忍び足で古寺に踏み込み、一行は唖然として寺内を見渡した。寺は誰一人居ない無人となっていたのだ。「茂助、本当に奴等はここに隠れていたんだな」「見て下さいよ、この庫裏の痕を」 茂助の言う通り庫裏には大徳利が散乱し、人の居た気配が残っている。「旦那、隣の部屋では女を抱いていた男が居た筈です」 それを耳にした若山豊後が襖を蹴破り部屋に飛び込んだ。 そこには布団が一流れ敷かれ、敷き布団が皺(しわ)を見せている。 豊後が布団に手を当てた、「まだ暖かい、畜生め見て下さいよ」 豊後が布団の一か所を指差した、そこには男女の情事の証の男が放った液体の痕が濡れて見えた。確かに茂助の言う通り、ここで女を抱いていた証拠である。 組頭の山部美濃守が顔面を朱に染め、怒りを抑えている。「この真昼間じゃ、そう遠くには逃れられめえ。竪川周辺と六間堀に小名木川周囲をあたってくんな」 天野監物の命令で茂助と弥七が配下を連れて散っていった。「矢張り、ただの鼠ではねえな」 天野監物と若山豊後が寺を一周し呟いた。数名の男が潜んでいた痕が残されていた。「組頭、茂助等がここに忍んできたことを感ず付かれたのです」「伊庭殿の好意を無にしたの」 山部美濃守と河野権一郎が、憤りを抑え無念の思いを語りあっている。「面目ありません、これからは松平定信さまの警護を万全にいたします」「河野、そちらは任せるぞ。わしは若年寄さまにお会いしてくる」「分かりました」 山部美濃守の視線が天野監物と若山豊後にそそがれた。「天野は大目付の嘉納主水殿に、この一件をお知らせしてくれ」「畏まりました」「豊後は伊庭殿に報告じゃ」 山部美濃守がてきぱきと指図を終え、猪牙船で戻っていった。「豊後、このような曲者は初めてじゃ。常に裏をかかれる」「わたしも同感です。こんなにも早く動く奴等は初の経験ですよ」「おいらはこの足で嘉納さまを訪れる。おめえは伊庭さまに今回の詳細をお知らせしてくんな」「分かりましたが、猪のさんに合わせる顔がありませんよ」 若山豊後が悄然としている。「めそめそするんじゃねえよ、こうなったらお知恵を拝借するしかあるめえ」 天野監物が怒りを鎮めて古寺から去った。 豊後は引き上げを命じ、猪牙船で大川にむかった。今日も空は秋空で澄み渡っている。一つ目の橋を潜ると回向院の周囲は人ごみで沸き立っている。今年最後の身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)の出開帳で秘仏を拝もうと集まった人々である。 昼間は見世物が並び、茶店が賑わうほど人々でごったがえしていた。 若山豊後は猪牙船を器用に操り大川に漕ぎだした。澄んだ川面に小波のような縮緬じわが浮き出ている、風が出てきた証拠である。 今も高瀬舟や荷船が師走をひかえ忙しく上下している。 豊後は船を新大橋の西に向け、永久橋、箱崎橋へと漕ぎ進み、日本橋へ向かうために右折した。ここから日本橋になる。 目指す船着場に猪牙船を舫い、敏捷に土手に駈けあがった。 季節がら日本橋は旅人が群れをなしていた。 豊後の目の前を天秤棒を担いだ振売りが駈け去ってゆく。朝、一稼ぎした振売りが再び日本橋の魚河岸から、新鮮な鰯や蛸や蛤を仕入れて棟割長屋に商いに行く姿であった。 桶には豆腐、蒟蒻が一杯に盛られ、ご丁寧に白菜、椎茸、葱までもが入っていた。さしずめ寄せ鍋の材料を売り歩くようだ。 豊後がいつもの角を曲がり眼を細めた。影の刺客(1)へ明日はお休みします。