最後の幕臣、小栗上野介の生涯。
「小栗上野介忠順」(95) 上野介は口中で呟いた。 これが成功すれば幕府は、銃器、弾薬、その他、一切を仏国から購入し、その支払は日本の物産であてる。これなら列国は文句の付けようがないことになる。改めてロッシュの手腕と西洋の近代的な思考法を知らされた。 併し、上野介の知らない裏に、日本の支配に就いて各国の熾烈な競争があったのだ。ロッシュ個人としても英国のパークスに対し、外交官としての意地があったことも事実であった。 ロッシュは更に驚くべき事を上野介や閣僚に語った。 それは六百万ドルの借款の件であった。「西洋では何処の国も行っている事ですが、改革にはお金が掛かります。 そのような時には債権を発行して資金を借ります。幕府もこれを成され、 公社が軌道にのればお金は返せます。我が国が責任を以て幕府の為に仲介の労を取りましょう。是非、そう成され」 またしても上野介は親切なロッシュの献策に感激したが、ロッシュの思惑は幕府にあった。彼等は海千山千の強者である。 この策で幕府を確りと仏国に取り込めておきたかったのだ。 上野介と栗本鋤雲の両名は頻繁にロッシュの許を訪れ、秘かに借款の密議を進めていたが、暫くは六百万ドルの借款の件は棚上げとし、上野介は公社に意を注ぐ事をロッシュに語り、協力を要請した。 上野介はお金が工面できる目途に満足したのだ。 これで念願の製鉄所が造れる、先ずはこれを手始めとして再建を図りたいと語り、事後の事を念入りにロッシュに頼んだ。 ロッシュも了解した。彼自身もあまりにも急激に幕府が動くことは列国を刺激すると考えており、上野介の進言はむしろ渡り船であった。 こうした時期に各地の豪商から、献金があいついで上野介の許に届けられた。三井、鴻池、鹿島等や江戸の豪商達であった。 彼等にも思惑があったが、小栗さまが危険な状況にあると風聞で聞き、自主的な献金であった。彼等商人も上野介の手腕に期待していた、穏便な上野介の商業政策と勘定奉行としての、彼の差配に感謝していたのだ。 (第二次征長の役) 慶応二年(一八六六年)を迎え、世の中は激動期を迎えんとしていた。 一月に薩摩と長州が軍事同盟を締結した。これは土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎の奔走のお蔭で、遂に西国雄藩が手を握ったのだ。 幕府はそのことを知らずにいたが、幕臣の一人の男だけは秘かに情報を入手していた。その男の名前は勝海舟という。 彼は未だに蟄居の身であり幕臣の身分でありながら、いまの幕府では天下の政治事が出来ぬと考えていた。 このような人物が幕府の枢軸に居座っていることが不思議である。 もし、上野介が知ったなら懸命に闘いを回避したであろう。いまの幕府では勝てぬ。軍制を改め仏国士官の招聘を待って幕府陸軍を精強にする。 その後に幕府陸軍を中核とし、諸藩の兵を加えた長州征伐の軍を起こした事であろう。 五月、上野介の恐れた事態が訪れた。将軍家茂は第二次征長の為に江戸を発って大阪城に入城した。動員された藩は三十五藩、十五万の大軍が集結し、征長総督を尾張藩の尾張慶勝に命じた。 六月、諸藩に対し一斉に周防、長門の防長二州の国境への進撃命令が発令され、幕軍は怒涛の進撃を開始した。 幕軍の作戦は四境より迫って一挙に防長二州を蹂躙することであった。 その作戦計画は四策が採られた。* 優勢な海軍の援護のもとに幕兵、松山藩兵を大島口に上陸させこれを 占拠する。*芸州口方面は幕軍の主力十五隊及び和歌山、彦根、高田の兵は海軍と 時期を合わせ、本道、海道、海上より相応じてまず、岩国を攻略する。*石州口方面は鳥取、松江、浜田、福山の諸兵及び和歌山藩兵の別働隊が 担当して津和野より迫る。*小倉口からは肥後、小倉の兵は機を見て馬関を攻めこれを占拠する。 併し、各地の幕軍の士気は奮わず、長州軍の果敢な攻撃と優勢な火器の前で、各地で敗れて敗走していた。 小栗上野介忠順(1)へ