うわばみ新弥行状譚(44)
(九章) 再び新弥の居残りがはじまった。「いかがいたした」上役の稲垣九兵衛が心配そうに言葉をかけた。「自分でも判りません」「いい加減にせぬと又きついお叱りをこうむるぞ」「覚悟をいたしております。お勤めを終えなくては帰れません」 言葉ほど深刻な顔をしていない。こうして藩金横領の手口を探るための居残りをはじめたのだ、直ぐに次席家老の石垣忠左衛門の呼び出しをうけた。「来たな」新弥は平然と奥の御用部屋に向かった。「斉藤にございます」「入れ」忠左衛門のしわがれ声がした。 部屋には一之進と賄い役の者も混ざり待ち受けていた。「斉藤、また居残りが多いそうじゃの、いかがいたした」 狡猾そうな細い眼が新弥にそそがれた。「申し訳ございませぬ。勘定方のお勤めは骨がおれます、順調に進むと直ぐに先に進めなくなります。真にもって不思議極まります」 賄い役の目つきが変わり何か言いたそうである。新弥は無視し言葉を継いだ。「幸い陽が長く皆さまのお叱りを受けることもなく助かっております」 先制攻撃である、珍しく忠左衛門が苦笑を浮かべた。「既に苦情が参っておる。だが、そちには似合わぬお勤めかも知れぬの」「ご家老、出来ますればお勤め替えをお考え下され」濃い髭面を撫で願いでた。「いずれ考えよう。先日の殺害事件も解決しておらぬ,あまり夜間にうろつかれては目付も迷惑いたす。以後つつしめ」 石垣忠左衛門はそれ以上言わず、下がるよう手をふった。一之進が不満顔をしたが、何も言わなかった。新弥は何食わぬ顔をして溜り場にもどった。「何を言われました」朋輩衆が心配して訊ねた。「埒もないお小言でございます」 彼は巨体をゆすり己の席にもどり、平然と算盤を弾きだした。 一方、溜り場では一之進が父の忠左衛門に噛みついていた。「父上、何故あのように穏便に帰しました」「そちも藩内の様子を知ることじゃ」「はぁー」一之進が怪訝そうな顔をした。「剣文館での磯辺との立会いの様子を聞いた。磯辺も藩内で聞こえた腕の男じゃが立会いにならなかったそうじゃ」「目付の磯辺伝三郎ですか?」「赤子同然にあしらわれたという」「斉藤がそんなに腕をあげましたのか」「館主の粟野五郎兵衛も三本のうち精々一本とれば上々とのことじゃ。そっと許しておくことじゃ」一之進の顔色が薄寒そうに変わった。 そんな会話が交されておるとも知らず、新弥は今日も居残っていた。 剣客の勘を働かせ人の気配のないことを確かめ、勘定方の帳簿の保管庫をあけ、会計簿をめくっている。五年間さかのぼって調査した、あとは昨年と今年の帳簿のみだが、今日はこれまでと丁寧に後片付けをして帰路についた。 掘割のせせらぎの音が心地よく響くなか、巨体を揺すって白壁の小道を辿っている。石崎孫兵衛が切腹を遂げ間もない時期である。磯辺伝三郎が必死で探索しているが、依然として檜垣屋と石崎家の癒着の証拠は不明のままであった。 白壁から黒板塀に変わり、角を曲がった時に微かな女の笑い声を耳にした。目前の屋敷から洩れ聞こえる、新弥が足を止めた。ここは馬廻役の加藤鍬次郎の屋敷である。主人殿は上府中の筈じゃ、見るともなく覗きみて愕然とした。 塀越しから信じがたい光景が見えた。普通の背丈では不可能だが、六尺ちかい背丈の新弥だから見えたのだ。うわばみ新弥行状譚(1)へ