血風甲州路(48)
励みになります、応援宜しくお願いいたします。「小仏宿の露天風呂でおいらが会った、お駒てえ女はなんとも色っぽい躯をしていたね。おっぱいなんて大きくてね、六紋銭の女でも一晩でいいから、抱いてみたかったね」 猪の吉が声を張り上げた。 日頃の猪の吉に似合わぬ様子をみて、お蘭が笑い声をあげ、その途端にお蘭が頬を染めた。求馬に抱かれたことを思いだしたのだ。 お蘭にとり露天風呂のなかでの秘め事は初めての経験であった。「猪の吉、あの女も六紋銭のくの一じゃ。いずれは現れよう、その時は存分に可愛がってやれ」 求馬が猪の吉をけしかけている。「そういたしやすか」 猪の吉が笑い声で応じた。「畜生、今度会ったら、ただてはおかないからね」 屋根裏に潜んでいる曲者が歯噛みをした。それはお駒であった。「ところで旦那、明日は脇道をぬける積りでございやすか?」「あえて虎穴に踏み込む積りじゃ」 「六紋銭が襲ってめえりやすな」「望むところじゃ。お蘭、そちも覚悟いたせよ」「はいな、旦那となら地獄の果てまで御供いたしますよ」 屋根裏のお駒が三人の会話を聞き、素早く立ち去った。「猪の吉」 「判っておりやす」 声と同時に、猪の吉が素早く部屋を抜け出でていった。 いろは屋の暗闇で猪の吉が、身を隠し見張っている。いつの間にか茶色の忍び装束に身形を改めていた、衣装を裏返しとすると忍び装束となるのだ。これは、昔の稼業で会得した業である。 猪の吉が懐中から、手拭をだし盗人被りとなった。 「現れたな」 いろは屋の屋根に人影がみえる、物音を消し素早い身ごなしで小路に飛びおりた。猪の吉が眼を凝らしている。 人影は軒下の翳から包みを引出し、着替えをしている。その衣装を包み背中に背負った、そこには旅慣れた感じのお駒の姿が現れた。 見事な変身である、彼女は小路に出て旅籠町を歩んでゆく。 刻限は五つ半(午後九時)頃となっているが、旅籠にあふれた旅人が軒下に屯している。そこで一夜を明かす積りのようだ。お駒は物慣れた様子で小さな居酒屋に入っていった、軒下に薄汚れた提灯が風に揺れている。 なんでも屋と消えかけた店の名前が描かれていた。(奇妙な村だぜ、いろは屋に、なんでも屋かえ)猪の吉が独り言を呟き、衣装を裏返しに着替えた。一瞬の間に町人姿となり、ふらりと居酒屋に入った。 店内は薄暗く貧相な面の小男が、ここの亭主のようで、旅姿の客が所在なげに酒を前にしている。お駒は隅に座って徳利をかたむけていた。「親父、熱燗を頼まあ」 猪の吉がお駒の隣りの醤油樽に腰をおろした。「あら、先日の旅の人ですか、猪の吉さんと言われましたよね」「そうだよ、おめえさんは小仏宿で会った確か、お駒さんとか云いなすったね」 猪の吉が驚いたふうに訊ねた。「奇遇ですね」 お駒が言葉を返し形のよい唇に杯を運んでいる。 亭主が熱燗の徳利と湯呑みを置いた。 「へぼの佃煮はあるかえ」「へい」 「一皿、くんな」 「おかしな食べ物を注文されますね」「こいつが美味い」 猪の吉が嬉しそうに頬を崩した。「やけに軽装と思いましたら、荷物がないんですね」「どうせ野宿だから、草叢に隠してきたのさ」 「旅慣れたものですね」「おめえさん、宿はとれたのかえ」 「見れば判りそうなものでしょ」「おめえさんも野宿かえ、まっ、一杯受けてくんな」 猪の吉が熱燗を勧めた。 お駒が無言で受けた。 「お駒さん、おめえさんどこで野宿だえ」「これから見つけますのさ」 「ヘボだ」 亭主が皿を置いてさがった。 猪の吉がへぼを頬ばった。 「気味の悪い物を食べるんですね」 お駒が奇妙な顔をして猪の吉を見つめた。(この男は一筋縄ではいかない)お駒が胸裡で呟いていた。「亭主、厠は何処だえ」 「裏にあるよ」 「ちょいと借りるよ」 猪の吉が裏に消えた。瞬間、お駒の眼がまたたき、懐中から何かを取り出し、猪の吉の徳利に入れた。 「臭せえが、川の音が風流だね」 猪の吉がもどり、湯呑みを空けた。「はいな」 お駒が徳利を差し出した。「こいつは嬉しいね、美人のお酌だ」 ご満悦で猪の吉が飲んでいる。「猪の吉さんは、何処に行かれます」 「前に話したように甲府だよ」 猪の吉が、お駒に徳利を差し出した。 「有難う」 お駒が受け、「わたしにも熱燗をおくれな」と、亭主に声をかけた。「やけに躯が暑いね、親父、へぼは強壮薬かえ」 猪の吉が声をかけ徳利の脇に顔を伏せた。 「おいら、眠くなったぜ」 「どうしたのです」 お駒の声を遠くで聞き、それっきり猪の吉の意識が失せた。血風甲州路(1)へ