伊庭求馬無頼剣(7)
「因縁」 江戸神田橋の明神下の薄汚れた棟割長屋に、早飛脚が訪れた。「臭せえ長屋だぜ、糞と小便の匂いかえ」 三度笠の飛脚が九尺二間の小路に足を止め、どぶ板の前で周囲を眺めている。鉢植の朝顔が洒落て見える。「猪の吉さんてえお方はここかえ?」「そう怒鳴りさんな、ご近所に迷惑だよ。おいらが猪の吉だよ」 腰高障子を開いて江戸っ子らしい、いなせの形をした中年の男が顔を見せた。「猪の吉さんかえ、飛脚便だよ」 飛脚が一通の書状を差し出した。 封書を受けとり猪の吉と名乗った男の視線が強まった。敏捷そうな男である。「臭いのはあたりまえだぜ、小便長屋てんだ。ご苦労さん」 と小銭を投げた。「ご馳走さん」 早飛脚が駆け去った。 四畳の畳部屋で猪の吉は書状に眼を通しいる。「やっぱり旦那はご無事でいなさる」 独り言を呟き顔つきが引き締まった。 この書状は猪の吉への頼みごとを認めた求馬からのものであった。「合点承知のすけ、早速、今夜でも探ってめいりやすぜ」 求馬が居れば颯爽と啖呵(たんか)のひとつも切ったであろうが、危険な仕事である。斉藤岩見邸を探ってくれ、これが求馬の頼みごとである。 何としても隠密団の動きが知りたい、求馬の思いが手にとるように分る。 だが一歩間違いば命のない危険な仕事であった。それを承知で頼むのは、猪の吉の腕を見込んでのことであった。 彼はかって飛礫の猪の吉と異名をとった大泥棒の頭であったが、二度にわたって求馬に命を救われた恩義があり、心底から求馬に惚れ泥棒稼業から足を洗ったのだ。そうした関係で何度となく求馬と荒事をこなしてきた。 今は昔の経験を生かし口利きを生業としているが、江戸の闇の世界で厳然たる影響力を持っていた。昔の子分は江戸の各所で女郎屋や金貸し、賭場の主人などで生計をたてているが、猪の吉の命令ならば何時でも駆けつけ命を投げ出す者達であった。「旦那、待っていておくんなせえよ、吉報をお知らせいたしやす」 深更、猪の吉は斉藤屋敷に向かっている。生暖かい風が澱み、紫陽花が暗闇でも分るほど咲き乱れている。(昼間なら風流だろうな) そんなことを考え目指す屋敷に着いた。 彼は懐から手拭を出し、手慣れた盗人被りとなった。 周囲は人影もなく広壮な旗本屋敷が、軒を並べて静まり返っている。 猪の吉が敏捷に土塀に飛びのり、素早く古松の太い枝に身を潜め、全神経を集中し邸内を見渡した。 静まり返った邸内に殺気の漲りが感じられ、眼を凝らし彼は息を飲んだ。 目前に壮絶な決闘が展開されていたのだ。 庭の中央に白練りの衣装を着た武士を囲み、六名の覆面姿の男が白刃を抜きつらねている。いずれも忍び装束姿である。 白衣の武士は地摺り下段に構えをとり、微動もせず刃圏に身をさらしている。 襲撃者は三間の距離から、じりっと包囲網をせばめた。殺気が急速に盛あがり思わず猪の吉が胴震いした。今迄、経験した事のない闘いを観たのだ。 一人が背後に廻り上段に構え、剣先を小刻みに動かしている姿が見える。 隻眼の大兵の男である。(あいつは伊庭の旦那が言われていなさる、葛城左近だな。するてえと襲われていなさる、お方は斉藤岩見様か) 猪の吉が気づいた時、静かで壮絶な闘いが幕をあけた。地摺り下段の白衣の武士が無言ですべるように間合いを詰め、構えを上段に変化させ、猛然と白刃が左右に煌いた。 血煙と同時に二人の襲撃者が地面に転がっている、凄まじい腕前である。 猪の吉の鋭い眼でも見極めることの出来ない迅速な攻撃であった。「柳生新影流逆風の極意」 しわ深い声を発し、斉藤岩見とおぼしき武士が、再び下段に構え剣気を内にひめ静かに佇んでいる。 葛城左近が巧妙に背後に廻りつつある。「わしを斬れと命じたる者は堀井讃岐守か?」 前面の三人に冴えた口調で訊ねた。三人は無言で剣先を揃え覆面越しより、眼光が炯々と燃えている。それぞれが相当の手練者としれる。伊庭求馬無頼剣(1)へ