最後の幕臣、小栗上野介の生涯。
「小栗上野介忠順」 (45) 「忠順殿、流石は目付にござるの、老人には分からぬことを考えられる」 数馬が酒で顔を朱色にし、感心の面持をしている。「海軍はそれで良いとしても、陸はどう成される」 小兵衛が真剣な顔付で上野介の眼を正面から見つめ訊ねた。「小兵衛さん、正直、わしにも分からぬ。学ばねばならぬと考えておる」 上野介が照れ笑いを浮かべ、すぐに真剣な顔に変貌した。「殿、清国の書によれば西洋列強には、三軍ありと記されております」 それまで黙していた塚本真彦が遠慮しつつ言葉を挟んだ。「三軍とはどのような軍制じゃ」 すかさず上野介が反応し、興味を示している。「歩、砲、騎と聞いております」 塚本の答えを聞き、上野介が素早く三軍の兵制を理解したようだ。「歩とは銃をもった足軽じゃな、砲は大砲を扱う兵じゃ。騎は騎馬兵じゃな」 塚本真彦が無言で肯いた。「列強の軍制が何とのう分かったようじゃ」 上野介が用人の塚本の端正な顔を見つめ頬を崩した。(まずは陸を勉学する)と内心に決めた。 この年の十二月一日に上野介は思いもせぬ命令を受けることになる。 日米修好通商条約の批准のために、渡米する遣米使節団の目付を申し渡された。目付であるが故に監察職で全権と同格と知らされたのだ。 正使は外国奉行の新見正興(まさおき)、副使は箱館奉行の村垣範正、目付は小栗豊後守忠順と幕閣より発令された。 出港は翌年の一月二十二日と決定し、ペリーが二度目に来航した艦艇のなかの一隻、ポーハタン号に乗船することに成ったと知らされた。 これは徳川幕府と成って初の壮挙であった。太平洋を横断し米国のサンフランシスコ港に向う、日本人が経験する初の出来事であった。 米国の最新の文化が見られる、上野介はそれを思い興奮していた。 小栗家はその準備に忙殺されているが、幕府は米国大統領への贈り物を何にするかで揉めていた。たわいのない事である。 ここで勝海舟に筆を移してみる、日本人として初の渡米者は勝海舟と言われているが、この事実で彼でないことが顕かと成った。 勝海舟はこの動きを知るや幕閣に建議した。日本人による操艦で米国まで、遣米使節団の護衛に任にあたると言う内容であった。 これは万一使節団が渡米不可能と成った時、その代理の任にあたり、更に使節団一行の大量の荷物を運ぶと進言し、それを許されたのだ。 こうしたことから察すると勝海舟の狙いは他にあった。 日本人が初めて太平洋を軍艦で渡る、これにより海軍の操練をみがく、これが勝海舟の真の狙いであった。 渡米に使う艦船でかなり揉めたが、最終的に咸臨丸と決まった。 この船は安政四年にオランダのスミット造船所で建造され、排水量は六百三十トン、百馬力の蒸気機関をもった帆船であった。当時としてはスクリュウー付きの最新式の軍艦であった。 一行は提督を木村摂津守、艦長が勝海舟で他に福沢諭吉が名を連ねていた。そこに米国海軍のジョン・ブルック大尉以下十一名が乗船したのだ。彼等は薩摩で難破した測量船クーパー号の剰員で勝は大反対したが、太平洋の時化で難渋した時、彼等が大いに働き船を助けることに成るとは、思いも及ばぬことであった。 小栗上野介忠順(1)へ