血風甲州路(1)
(一章) 江戸は厳しい残暑に見舞われ、数日、雨のない日々を迎えていた。 そうした暑苦しい夜に神田駿河台の、諏訪高島藩三万石の上屋敷で先刻から三名の者が密談を交わしていた。藩主諏訪因幡守忠政(ただまさ)と江戸家老の嘉納隼人正(はやとのしょう)、用人の岩村弦四郎であった。 諏訪因幡守は当年二十五歳の青年藩主で、天保十一年に家督を相続した。 彼は寛政の改革で名高い、御三卿の出身である松平定信の外孫にあたり、信濃諏訪神社の神官の家系で、名門のでに相応しい気品をそなえた端正な面立ちをしていた。一方の嘉納隼人正は、髭跡も濃く精悍な面魂の壮年の男であった。一歩、さがった席に用人の、岩村弦四郎が柔和な顔をみせ会話に聞き入っている。「殿、兄の知らせに因りますれば、今宵、水野忠邦(ただくに)の操る曲者どもがご当家を襲いくるとの事にございます」 嘉納隼人正が剽悍に眼差しをむけ主人に語りかけた。「老中首座の水野忠邦、なにを血迷ったぞ」 忠政が小首をひねった。「天保の改革の失敗を取り戻そうとする、仕業かと推測いたしまする」「なぜ、ご当家を襲って参りまする」 それまで口を閉ざしていた、岩村弦四郎が不審な顔つきで訊ねた。「弦四郎、当家は三万石の小藩なれども、甲斐武田の隠し金塊の絵図が伝わっておるのじゃ。恐らく水野忠邦め、それに気づきおったのじゃ」 嘉納隼人正が寂びた声で驚くことを述べた。「隠し金塊の絵図、・・・そのような物が存在しますのか?」 岩村弦四郎の視線が主人の忠政に注がれた。「代々の藩主に玄公金秘匿絵図が伝わっておる、今は余の手元にある」 忠政が落ち着いた口調で岩村弦四郎に告げた。「玄公とは武田信玄の諡号(しごう)にございますな」「恐らくな」 諏訪忠政が肯いた。「老中首座の水野忠邦が、何ゆえにその絵図を狙ってきます」「弦四郎、その訳はわしが話す。水野忠邦は改革に失敗いたし、大奥の女共に疎まれておる、承知のとおり家慶(いえよし)さまは四十半ばで将軍職に就かれた。それ故に大奥には、ことのほかご執心じゃ。それを良いことに大奥の女子共は水野を讒訴いたし、老中の阿部政弘殿を首座に押しておる」「成程、己の失脚を恐れ、ご当家の金塊秘匿絵図を狙いまするか。それが成就いたせぱ、水野の地位は安泰にございまするな」 岩村弦四郎が合点し、隼人正に己の考えを述べた。「そう考えれば、ご当家襲撃の辻褄が解ける」 この時代の背景を説明すれば、第十一代将軍の家慶は天保八年四月二日に先代の家斉の隠居を境として将軍の座に就いた。だが、家斉は大御所として西の丸で権力を握り、名のみの将軍であったが、家斉の没後に家慶は彼に仕えてきた、水野忠邦を老中首座に据えたのだ。水野忠邦は拝命し天保の改革に着手した、それは松平定信が進めていた寛政の改革の模倣であった。 主な改革は財政の緊縮策と奢侈の禁止、芝居、文芸の取り締まりなどで、専ら、強権的な恐怖政治を断行したのだ。それは大奥に対しても行われた。血風甲州路(1)へ