日本男児ウラン爺さん東善作
鳥取県中部に小鴨鉱山があります。ここにウランが、発見され昭和31年10月21日に科学技術長官正力松太郎氏が参加し、テープを切り、小鴨鉱山ウランの開所式がおこなわれました。 ピッチブレンドという鉱脈型の鉱物で、品位が高く、期待され、日本原子力の夜明け到来にわきました。 「小鴨で採れた石の粉を2級酒にいれると、特級酒に変わるそうだ」 「小鴨の石は、水虫にきく」 「ウランを入れたお風呂は体にいい」 ウラン節がうたわれ、サッサ ウランがよ サッサ ウランの花が咲くよ。 はじめての坑道探査に、原子燃料公社も資材の投入を惜しみませんでした。 だが、品位こそ高いが鉱脈型ゆえ量が少なく、採算割れとなり夢と期しました。 公社のジープも、ガイガーカウンターを積んで、放射能のある地域を探していました。 当時は、火成岩のある地域を探していました。 人形峠を越えるとき、堆積岩地域で、スイッチを切るのを忘れ、ガーガーとなり出しました。堆積岩のニンギョウナイトが、発見された瞬間でした。 堆積岩の中に、鉱脈型の鉱物が、風化され堆積したもので、品位は落ちますが、量が多く採れます。これで、探査対象は堆積岩に向けられていきました。 原燃公社の人形峠での発見で、鉱区請願を広島にいったら、すでに、小鴨鉱山の東善作氏によって、鉱区申請がなされていました。 この東善作なる人物こそ、ウラン爺さんとして、日本のウラン開発に偉大な貢献した、波乱万丈の日本男児です。 ここで、東善作氏のことについて、「ある日本男児とアメリカ」なる鈴木明著を引用してみます。 日本の原子力草創の時代、人形峠のウラン鉱採掘権を最初に申請した山師は、昭和5年にロサンジェルスから東京へ、米・欧・露三大陸横断の単独飛行を敢行した、パイロットだった。 小型単発機でシベリア大陸横断し東京に着陸したとき、帝国飛行協会会長長岡将軍は、東善作こそ国宝的存在と激賞しています。 大正5年、飛行学校入学を目指して渡米し、第1次大戦には米空軍に入隊し、昭和9年まで、排日の高まる西海岸に暮らし、第2次大戦では帰国した東京で空襲をうける。 20世紀の壮大な2つの夢を大真面目で追っかけた日本人の生涯を物語るとして、著作は展開します。 この東善作なる人物が、鳥取県中部に原子の胎動をもたらしました。 日本が敗戦して、消沈してるとき、米国から、ただ一人軍人恩給をもらっていたというから面白い。だから、米国のウラン鉱発見で長者となった友ブロッサー氏も飛行機仲間で、その協力をうけての活動で、日本にもウラン鉱が必ずあるとの信念をもってたようです。 ウラン爺さんとよばれたように、東善作氏は、ウランにかけた意地は、太平洋横断時に近いものでした。国内には実験室で使うガイガーカウンターしかなかったときに、米国から4台の新型ポータブルガイガーカウンターを入手して、日本の山から山へ持ち歩き調査しました。しかしカウンターはなりませんでした。 原子力の時代は目の前に来ている。 日本でも、近く原子力工業が始まるでしょう。 その時に、日本にウランがなかったらどうなるか。 各国とも、ウラン鉱の輸出にはいろいろと条件をつけるでしょう。 そのとき慌ててもダメだ。 私は、それが心配で、この事業に手を出したんです。 ブロッサー氏の援助もありますが、私は、全財産をなげだして、この事業に打ち込む決心です。 この東善作氏の熱意の反響は大きく、全国の閉山中の鉱山から石をおくってくるものもありました。 大多数の石はなんの反応もおこしませんでしたが、3月末に送られてきた石がカウンターをならしウランの反応をしました。 鳥取県倉吉市近郊 石坂清福所有の小鴨鉱山の石でした。 放射能反応の石の存在は、彼が出入りしてた地質調査所にしらしたものの、産地は黙秘で教えませんでした。まだ法定鉱物に指定してないときでした。 東善作氏の手紙に関金という消印を見つけ地質調査所員が、ウランの出そうなところと日本中の関金を照らしあわせて、鳥取県の小鴨鉱山をわりだし、全員出かけ、小鴨付近の農家に民宿してセンチきざみにして探査してまわりました。 小鴨鉱山のウランを地質調査所が確認した数日前に、東善作氏は、全財産をはたいて、小鴨鉱山の共同所有者になっていました。 そして、人形峠の堆積岩に焦点が変わっていきます。 原子燃料公社は、法定鉱物指定となったウランを、開発する義務があり、鉱区権を持っている者の権利は尊重されました。 そこで、234名の株主、米子坂口平兵衛社長のウラン工業株式会社が1億円の資本金で設立され、東善作氏は、取締役となり、ウランの開発に乗り出すことになりました。 原燃公社と、U3O8の含有量1kあたり0,1%以上を5000円、0,5%以上を5,850円と採掘した物の対価の契約を昭和32年10月にウラン工業がしています。 ウランが多く掘削されれば、国は富み、ウラン工業は、販売が上がるという仕組みでした。 しかし、ウラン工業も、すぐ収入があるわけでもないので、公社が開発する仕事を請けて、探鉱作業を行う事業をはじめました。 ウラン工業は、めぼしいところを鉱区請願していましたので、鉱区権利金だけでもかなりの額になったでしょう。東郷池も一時権利の中にありました。三朝助谷の山地も鉱区請願していました。 今、湯梨浜町となっています松崎の方面(カタモ)、麻畑(川上)にウランがでて、原子燃料公社が直営鉱区を持つことが指命で奔走してた時、地元の発見者と鉱区請願でトラブルがあり、これは後の残土除去の時まで不協和を残しました。 品位が低いこともありますが、ウランの態勢が、世界的に買い手市場に変わり採算割れとなり夢もしぼみ、快男児として世に語られるはずの東善作氏も陰をひそめました。 倉吉の小鴨鉱山があった菅原も過疎の波に沈み、時折山菜とりの人が訪れ、藪なかの放射能検知箱を不思議そうに眺めていくありさま、方面も麻畑も残土撤去に騒いだ方がウラン鉱石発見よりも数段大きかった歴史も夏草が覆い忘れされました。